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ヒストリー

前編:草創期の60年(1900-1960年)

社会環境デザインを拓く、
⽇建設計のDNA

⽇建設計は、⽇本の近代化と共に歩んできました。
自分たちのビジョンの実現や、先駆者になることよりも、社会の要請に応えることを目指してきました。
時代が必要とする「⽤」があり、それに応える「プロジェクト」に挑み、社会へ「貢献」する。
そして、結果として先進的な成果を残す。それが⽇建設計の変わらない姿です。
画像提供:住友倉庫

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今も守られている
「⽤」「プロジェクト」「貢献」のサイクル

日建設計の歴史は「用」と「プロジェクト」と「貢献」のサイクルです。
時代の「用」に応えるために日建設計は「プロジェクト」に取り組みます。
その時の社会の要請に応えるべく知識習得や研究開発を行い、
そこから独創的なアイデアや革新的な技術を生み出します。
その成果と社会的な「貢献」が専門家集団を進化させ、
ノウハウを次の「用」に活かします。
こうして日本社会と共に日建設計は成長し続けてきたのです。

「建築」と「⼟⽊」、
2つの専⾨家集団が誕⽣

⽊造の時代に「百年の計を為す」建築の実現

江戸から明治になり、国のしくみの西洋化が進みます。
明治新政府は、政府紙幣を発行。お金の単位は円となり、
現代に通じる貨幣経済が本格的に動きだしました。
江戸時代、大阪は天下の台所と呼ばれ、
日本経済の中心的な役割を果たしていましたが、
幕末から明治初期にかけて、蔵屋敷の廃止や藩債の切り捨てなどから
大阪経済は一時衰退します。貨幣経済を関西にも根付かせ、
“商都大阪”の復活を願った住友は銀行業を営むことを決定し、本店建設を計画。
“建築工事は数年を期し、充分堅固、百年の計を為すこと”と決議されました。
貨幣経済と本店建設という「用」を担うために
1900(明治33)年、建築の専門家集団である「住友本店臨時建築部」が発足。
これが日建設計の原点です。
「住友本店臨時建築部」は臨時という文字が示す通り、
設計組織は建築が完成した時点で解散することを前提にしていましたが、
技術に重きを置いて集められた26名には大きな期待が寄せられました。
この住友本店の「プロジェクト」は、
当時の新しい技術を使い、新時代の銀行のあり方を示した建築として、
関西地区の経済発展、近代銀行業の確立に「貢献」しました。
日建設計は、出自である住友の鉱山技術者たちの国益に貢献する志を、
DNAとして受け継いでいるのです。

[大阪図書館 (現:大阪府立中之島図書館)1904年]

近代化に向けた知の共有のため、住友家が大阪府に寄付をし、建てられた図書館。日建設計の前身である住友本店臨時建築部の野口孫市によって設計された。
出典:日高 胖編(1920)『野口博士 建築図集』日高 胖

[大阪図書館 (現:大阪府立中之島図書館)1904年]

近代化に向けた知の共有のため、住友家が大阪府に寄付をし、建てられた図書館。日建設計の前身である住友本店臨時建築部の野口孫市によって設計された。
出典:日高 胖編(1920)『野口博士 建築図集』日高 胖

[住友ビルディング(現:三井住友銀⾏⼤阪本店)1930年新築時]

⻄洋と東洋を融合した建築として、⽇本近代建築史上に残る仕事となった。
画像提供:住友史料館

[住友ビルディング(現:三井住友銀⾏⼤阪本店)1930年新築時]

⻄洋と東洋を融合した建築として、⽇本近代建築史上に残る仕事となった。
画像提供:住友史料館

時代を先駆ける、官⺠連携の都市開発プロジェクト

明治維新による開国後、海外からの船の往来が増え、
大阪の貿易と商工業の発展には港の充実が不可欠になりました。
大阪市の手で開始された大規模な築港工事は、
日露戦争後の恐慌により、市の財政難から中断されていました。
これを見かねた住友は、関西経済発展のため、
大阪北港事業のきっかけとなる第一号岸壁の築造と
その背後の倉庫群の整備を願い出ます。
大阪市は住友の申し出を受け入れ、
大阪市監督の下で住友が全ての工事を行うこととなります。
こうした背景から住友は1919(大正8)年、本店内に「臨時土木課」を設置し、
大阪北港の事業を開始しました。
そして同年、事業推進のため臨時土木課を独立させ、
関係地主組合とともに「大阪北港株式会社」を設立。
当時の新しい土木技術を導入した「プロジェクト」を
推進します。
防波堤や桟橋を含めた港湾、埋立・造成、倉庫、工場、さらに住宅を建設し、
大阪港に直結する国際的な工業都市開発を目指したのです。
公共事業という概念がなかった時代に、
現代の官民連携プロジェクトにあたる体制を整え都市開発に「貢献」しました。
また、このプロジェクトでは「建築」と「土木」の2つの専門家集団が協働しており、
日建設計の原型をつくっていました。

[⼤阪北港⽅⾯図]

⼟質・地盤などの調査と建物の構造設計の全てを⾃分たちの⼿で⾏なった。
⾃ら調査した確信の持てるデータを基礎に建物の構造設計を⾏う現在の⽅式がこの時に確⽴。
出典:大阪北港株式会社(編)『大阪北港二十年史』

[⼤阪北港⽅⾯図]

⼟質・地盤などの調査と建物の構造設計の全てを⾃分たちの⼿で⾏なった。
⾃ら調査した確信の持てるデータを基礎に建物の構造設計を⾏う現在の⽅式がこの時に確⽴。
出典:大阪北港株式会社(編)『大阪北港二十年史』

⾦融⼤恐慌、
その苦境からの脱出

1929年(昭和4)年、世界各国を金融大恐慌が襲います。
住友も深刻な事業の悪化が起き、人員整理を行う必要がありました。
住友合資会社の工作部と呼ばれる設計・技術部門のリーダー
長谷部鋭吉と竹腰健造は、部員の離散を見るに忍びないとして自らも住友を離れ
「長谷部竹腰建築事務所」を設立します。
覚悟を決め船出する姿に住友は資本金を貸し出すなど
温情のこもった扱いで送り出します。
1年目は賞与も出せない厳しい状況でしたが、
大阪経済の発展という「用」を持つ
大阪株式取引所市場館の「プロジェクト」の依頼が寄せられます。
苦境の時でも「用」に応え「プロジェクト」に取り組み、
社会に「貢献」するサイクルを変えることはありませんでした。
大阪株式取引所市場館は2,000人を収容する冷暖房完備の大空間を持ち、
先駆的な採光と音響設計がなされています。
これは後のスタジアムなどの高度機能大空間の先駆けとなりました。
大阪株式取引所市場館が高い評価を得た長谷部竹腰建築事務所には、
住友以外のプロジェクトも相次ぐようになり、徐々に苦境から脱出します。
長谷部竹腰建築事務所は、当初借入していた資本金を全て返済し、
日本初の法人形態の建築設計事務所となります。
それは外部資本からの影響を受けず社会的な責任を全うする
欧米の「プロフェッショナル・コーポレーション」に相当するもの。
現在の日建設計に引き継がれている、
器としての法人形態と、その中に入る精神が形づくられた出来事でした。

[⼤阪株式取引所市場館 1935年]

新しい資本経済という社会・経済の進化に呼応したプロジェクト。
その後の⽇建設計の歩む道を⽰唆するものとなった。
画像提供:日本取引所グループ

[⼤阪株式取引所市場館 1935年]

新しい資本経済という社会・経済の進化に呼応したプロジェクト。
その後の⽇建設計の歩む道を⽰唆するものとなった。
画像提供:日本取引所グループ

戦後の復興を⽀えるのは
技術者という信念

第二次世界大戦後、住友は労苦をなめて帰還し、
職を失っている技術者たちの受け皿になる会社を用意することを決めます。
長年育成してきた人材を離散させてしまうのは重大な損失であるだけではなく、
何より日本の戦後復興には技術者が必要だと考えたからです。
また、財閥解体の動きを予測し、解体されるのではなく、
意図を持った組織として分かれるように準備をしたのです。
そして“荒廃の中から新しい日本を建設する”という理想から名付けられた
「日本建設産業」、さらに後に「日建設計工務」を設立します。
日建設計工務の設立当初は、
全株式を会社設立支援のため日本建設産業が保有していましたが、
事業が軌道に乗ったタイミングで社長以下15名が譲り受けました。
当時の社長は、その全株式を社外に出さない方針を確立しました。
これが現在の社内株主制度の始まりです。
この制度は、いかなる外部の力にも支配されることなく設計監理者として、
独立不羈(ふき)、自主自立の立場を厳正に保つ精神に深く根差しています。

[聖心女子大学 1950~1959年]

日本建設産業東京支店が、第一期から数期にわたる設計監理を請け負った。建築は東京・広尾に現存。

[聖心女子大学 1950~1959年]

日本建設産業東京支店が、第一期から数期にわたる設計監理を請け負った。建築は東京・広尾に現存。

[女子学院 1950~1955年]

日建設計工務として携わった学校建築で、こちらも数期にわたり担当。
1992年に新校舎(ヴォーリズ社設計)へと建て替えられたが、面影は引き継がれている。

[女子学院 1950~1955年]

日建設計工務として携わった学校建築で、こちらも数期にわたり担当。
1992年に新校舎(ヴォーリズ社設計)へと建て替えられたが、面影は引き継がれている。

「建築」と「⼟⽊」の両輪で、
時代の要請に応える

在日米軍日本建設本部(JCA)は、
日建設計工務が建築と土木の業務を一体的に遂行できることを評価していました。
在日米軍施設の工事を直接契約で継続的に受託できたことは、
戦後の建築需要が少なかった中で大きな助けとなりました。
JCAとの仕事の中で吸収した、新技術や設計仕様書の内容や組み方などは、
その後の国内業務にも役立って行きました。
それらの経験は現在の海外プロジェクトや
プロジェクト・マネージメントの原点になっています。
また、上屋を設計する建築部門と、
これを支える土地の測量・地盤調査を行う土木部門の両輪があることで、
戦後の日本経済の復興と成長を支えた工場建築も一体組織として担うことができました。
製鉄所の転炉工場は最高部高さ60mを超えるものであり、
頑丈な機械基礎や鉄骨の大空間架構を設計する高度な設計技術が必要です。
それは後にタワー建築や超高層建築の構造設計に生かされることとなります。
「建築」と「土木」の両輪があったからこそ戦後の厳しい時代を生き延び、
さらに未来へ可能性を広げることができたのです。

[JCAとの打ち合わせ⾵景]

中央は⽇建設計⼯務の初代社⻑・尾崎久助。
⽶国流の⼟⽊・建築・設備の混成メンバーによる仕事が、⽇建設計⼯務が確⽴したプロジェクト・マネージャー⽅式制度の原点。

[JCAとの打ち合わせ⾵景]

中央は⽇建設計⼯務の初代社⻑・尾崎久助。
⽶国流の⼟⽊・建築・設備の混成メンバーによる仕事が、⽇建設計⼯務が確⽴したプロジェクト・マネージャー⽅式制度の原点。

[住友⾦属⼯業和歌⼭製鉄所(現:日本製鉄関西製鉄所和歌山地区)1965年]

工場プロジェクトの実績は現在の日建グループによる生産・流通施設設計に継承されている。

[住友⾦属⼯業和歌⼭製鉄所(現:日本製鉄関西製鉄所和歌山地区)1965年]

工場プロジェクトの実績は現在の日建グループによる生産・流通施設設計に継承されている。

[東京タワー 1958年]

電波塔の機能に加え、観光施設としての機能と都市景観を形成する施設として設計され、⾼度成⻑期のシンボルとなった。

[東京タワー 1958年]

電波塔の機能に加え、観光施設としての機能と都市景観を形成する施設として設計され、⾼度成⻑期のシンボルとなった。

後編:多様性の60年(1961年-)

社会の用と共に
多様化する日建設計の貢献

新しい日本へ。60年代から日本の社会・経済は変化と拡大を続けます。
日建設計も歩調を合わせるように、
建築、そして都市、環境の分野に事業領域を拡げていきます。
それは単なるビジネスの拡大ではなく、
多様化する時代の「用」に応え「プロジェクト」に取り組み
「貢献」するサイクルを守り続けた結果です。
撮影:kuremo - stock.adobe.com

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戦後の新しい社会を躍動させる

もはや戦後ではない。この言葉が象徴するように、
日本は近代化のために自らを改造し新しい国づくりを進めました。
1960年の国⺠所得倍増計画、1964年の東京オリンピックに刺激され、経済成長が加速。
一般企業が成長し、オフィスワーカーが急増しました。
そして、今までにない大規模なオフィスビルという「用」が生まれ、
日建設計工務はそれに応える「プロジェクト」に挑みました。
そのひとつが、この時代を代表するオフィスビルとして今も残る
「パレスサイドビル」です。
オフィスや商業施設などを複合させた当時としては画期的な建築で、
大規模複合建築のプロトタイプとなりました。
また、天井高まであるフルハイト窓の導入や屋上の開放など、
オフィスワーカーに快適な環境を提供することで
日本のオフィスビル空間の発展に「貢献」しました。

[パレスサイドビル 1966]

延床⾯積12万㎡で、当時としては画期的な規模となる建築。⽇建設計が得意とするロングスパンオフィスの先駆けにもなった。
撮影:小川泰祐(外観)/山田脩二(屋上)

[パレスサイドビル 1966]

延床⾯積12万㎡で、当時としては画期的な規模となる建築。⽇建設計が得意とするロングスパンオフィスの先駆けにもなった。
撮影:小川泰祐(外観)/山田脩二(屋上)

[百⼗四ビル・百⼗四銀⾏本店 1966]

⾃由主義経済の時代に変わり、市⺠に向けて開かれた新しい銀⾏像をつくった。銀行のホスピタリティを建築で体現し、市民社会の発展にも貢献した。
撮影:タイラ・ホート 多比良敏雄

[百⼗四ビル・百⼗四銀⾏本店 1966]

⾃由主義経済の時代に変わり、市⺠に向けて開かれた新しい銀⾏像をつくった。銀行のホスピタリティを建築で体現し、市民社会の発展にも貢献した。
撮影:タイラ・ホート 多比良敏雄

大衆の時代のシンボルを生み出す

自由主義経済が成長し、市民生活が活発になるに従って、
時代の主役は大衆になりました。
GDPの向上に伴い、文化・エンターテインメントを楽しむ余裕が生まれ、
多機能×多目的な施設が求められるようになりました。
その「用」に応えた「プロジェクト」が「全国勤労青少年会館(現・中野サンプラザ)」です。
限られた敷地の中で、演劇や音楽を楽しむオーディトリアム棟、ホテル棟、
事務所・スポーツ施設棟の3棟を工場建築で培った構造技術を駆使して立体的に配置し、
複合を実現した大三角形の姿は時代のシンボルとなりました。
その後、イベントの大規模化に対応する大空間が求められ、
「東京ドーム」が誕生します。
収容人数はホールなどの1万人規模から6万人規模に拡大。
今では各地で見ることができる全天候型多目的スタジアムの先駆けとなりました。
日建設計は、1970年代から今日まで、拡がる大衆文化に「貢献」し続けています。

[全国勤労青少年会館(現・中野サンプラザ) 1973]

大三角形の建築は、時代のシンボルとなり、同時に日本のポップカルチャーの象徴となった。
三角形の姿は、多くの人たちが利用する大きな施設ほど下に配置するという防災避難計画によるもの。

[全国勤労青少年会館(現・中野サンプラザ) 1973]

大三角形の建築は、時代のシンボルとなり、同時に日本のポップカルチャーの象徴となった。
三角形の姿は、多くの人たちが利用する大きな施設ほど下に配置するという防災避難計画によるもの。

[東京ドーム 1988]

日本初の全天候型多目的スタジアム。大空間の構造技術と設備技術、防災、音環境・光環境を大きく進化させた。
画像提供:東京ドーム

[東京ドーム 1988]

日本初の全天候型多目的スタジアム。大空間の構造技術と設備技術、防災、音環境・光環境を大きく進化させた。
画像提供:東京ドーム

民間活力で都市間競争力を高める

1970年、日建設計工務株式会社は「株式会社 日建設計」に改称しました。
シンクロするように、この年から日本の社会や技術がビッグバンのように拡大を始めます。
1972年には日本列島改造論が提議され、都市改造と地方都市の整備が進められました。
それにより国内の各都市が新たな展開を求め動きだします。
こうしたなか、日建設計は、
日本第二の都市である大阪をさらに発展させるという「用」に応え、
「大阪ビジネスパーク(OBP)」の「プロジェクト」を担いました。
官ではなく、土地所有者と日建設計が事業を主導。
民間活力を活用するモデルプロジェクトとして位置づけられ、
民間主導型開発事業の先駆けとなりました。
民はもちろん官に至るまで、多くの人々との出会いと関係者の強い意志、
そこから生まれた信頼の積み重ねによってまちづくりは成功し、
大阪の経済発展に「貢献」しました。

[⼤阪ビジネスパーク 1970年代~]

民間主導による約26haという大規模な土地区画整理事業。
日建設計は竹中工務店や槙文彦氏とともにOBP計画1969を提案。
1970年代からは、立場や専門性の垣根を超えたコラボレーションで都市開発に貢献している。
撮影:フォト共同プロ 樋口尚俊

[⼤阪ビジネスパーク 1970年代~]

民間主導による約26haという大規模な土地区画整理事業。
日建設計は竹中工務店や槙文彦氏とともにOBP計画1969を提案。
1970年代からは、立場や専門性の垣根を超えたコラボレーションで都市開発に貢献している。
撮影:フォト共同プロ 樋口尚俊

国際化の時代、日本から世界へ

日本市場が成長から成熟の段階に変わると、
多くの企業が世界に市場を求めるようになりました。
そこに国際空港の充実という「用」が生まれ、
日本初の24時間運用可能な空港施設「関西国際空港」が誕生します。
安全性を考慮し、空港を大阪湾の約5km地点の人工島につくるという
国家的な「プロジェクト」であり、
平均水深約18mの海域を約510haにわたって埋め立てる人工島の建設は、
世界的にも大規模な計画でした。
歴史の中で培ってきた「建築」と「土木」を軸とする日建設計の総合力によって高度且つ困難なプロジェクトを遂行し、
日本のグローバル化に「貢献」しました。

[関⻄国際空港旅客ターミナルビル 1994]

全⻑約1.7kmをひとつのつながりの⼤屋根で覆い、意匠・構造・設備が⼀体化した⼤空間デザインを実現した。
(大屋根設計:レンゾ・ピアノ)
画像提供:竹中工務店

[関⻄国際空港旅客ターミナルビル 1994]

全⻑約1.7kmをひとつのつながりの⼤屋根で覆い、意匠・構造・設備が⼀体化した⼤空間デザインを実現した。
(大屋根設計:レンゾ・ピアノ)
画像提供:竹中工務店

[中部国際空港”セントレア” 旅客ターミナルビル 2004]

中部地方の新しい国際拠点として建設された24時間発着可能な海上空港のターミナルビル。
撮影:エスエス

[中部国際空港”セントレア” 旅客ターミナルビル 2004]

中部地方の新しい国際拠点として建設された24時間発着可能な海上空港のターミナルビル。
撮影:エスエス

[成田国際空港 1978~]

高度経済成長期の国際輸送の需要や大型ジェット機の増加に応え、誕生。今も社会変化に応じて変化しながら日本の空を支え続けている。日建設計の国際空港設計の歴史はここから始まっている。
撮影:エスエス

[成田国際空港 1978~]

高度経済成長期の国際輸送の需要や大型ジェット機の増加に応え、誕生。今も社会変化に応じて変化しながら日本の空を支え続けている。日建設計の国際空港設計の歴史はここから始まっている。
撮影:エスエス

[イスラム開発銀⾏本部ビル 1993]

1990年前後は海外での建築設計にチャレンジした時期でもある。これまでの経済成長の中で日本企業が培ってきた技術力やサービスの質の高さやプロジェクトに対する姿勢が評価されたプロジェクト。サウジアラビア第2の都市ジェッダに建設されたイスラム開発銀行本部ビルは、気候・風土、文化、宗教、現地の人々の気質を深く理解し、随所にイスラム建築特有の空間概念や習慣などが反映されており、約30年の歳月を重ねた今も建設当初と変わらぬ姿で存在している。

[イスラム開発銀⾏本部ビル 1993]

1990年前後は海外での建築設計にチャレンジした時期でもある。これまでの経済成長の中で日本企業が培ってきた技術力やサービスの質の高さやプロジェクトに対する姿勢が評価されたプロジェクト。サウジアラビア第2の都市ジェッダに建設されたイスラム開発銀行本部ビルは、気候・風土、文化、宗教、現地の人々の気質を深く理解し、随所にイスラム建築特有の空間概念や習慣などが反映されており、約30年の歳月を重ねた今も建設当初と変わらぬ姿で存在している。

バブル崩壊後、成熟社会の価値観をつくる

バブル景気の終焉によって、社会全体が立ち止まり、
戦後から猛烈に突き進んできたこれまでの経済成長優先から、
市民一人ひとりの暮らしの快適性や利便性を重視する価値観が
大切にされるようになりました。
「東京ミッドタウン」は、成熟社会の「用」を映す「プロジェクト」です。
隣接する港区区立檜町公園と一体的につながることで、
公園と合わせて約10haの大規模再開発を実現。
その中に、他に類をみない約4haもの緑豊かなオープンスペースをつくり、
東京都心部で人々に憩いと安らぎを提供しています。
「東京ミッドタウン」は、国内外のデザイナーが複数参画する大規模プロジェクトで、
日建設計は街をつくりあげるマネジメント業務も担当。
今でこそ都市計画や地域計画の民間コンサルティングが認知されていますが、
当時の都市計画は官が行うことが通例であり、
プロセスの面でも革新的なプロジェクトとなりました。
建築単体ではなく街区のスケールで価値を創造するために重要なのは調整と合意。
日建設計は、何事にも左右されない中立性、第三者性の精神で判断し、
人々に「貢献」する社会環境デザインを実現します。

[東京ミッドタウン 2007]

⼤規模かつ⻑期プロジェクトでは社会・経済状況の変化に応じてオープン時期の遅延が起こりがちだが、緻密で正確なロードマップにより予定通りのオープンを果たした。
撮影:川澄・小林研二写真事務所

[東京ミッドタウン 2007]

⼤規模かつ⻑期プロジェクトでは社会・経済状況の変化に応じてオープン時期の遅延が起こりがちだが、緻密で正確なロードマップにより予定通りのオープンを果たした。
撮影:川澄・小林研二写真事務所

[東京ミッドタウン 芝⽣広場]

⻘⼭〜六本⽊〜⾚坂に⾄るグリーンベルトの重要な⼀画となり、東京のヒートアイランド化を低減する役割を果たす。
画像提供:東京ミッドタウン

[東京ミッドタウン 芝⽣広場]

⻘⼭〜六本⽊〜⾚坂に⾄るグリーンベルトの重要な⼀画となり、東京のヒートアイランド化を低減する役割を果たす。
画像提供:東京ミッドタウン

[中之島エリア 2012~2017]

中之島は、大阪の政治・経済・文化の中心地であり、豊かな水と緑、歴史的建築物が大阪を代表する景観を形成していた。
大阪市民に愛され続けてきたフェスティバルホールを建て替えて再生させるなど、文化と歴史による豊かさを享受できるエリアとして存在し続けている。

[中之島エリア 2012~2017]

中之島は、大阪の政治・経済・文化の中心地であり、豊かな水と緑、歴史的建築物が大阪を代表する景観を形成していた。
大阪市民に愛され続けてきたフェスティバルホールを建て替えて再生させるなど、文化と歴史による豊かさを享受できるエリアとして存在し続けている。

大震災の前、そしてこれから

阪神淡路大震災や東日本大震災は、
災害に対する人々の意識を大きく変えました。
日建設計は、それ以前から日本が地震大国である「用」に向き合っていました。
「石巻赤十字病院」の「プロジェクト」では地歴調査を実施し、
過去の旧北上川の氾濫時の水位より高い位置に盛り土をしていたことから、
東日本大震災の津波の影響による浸水被害を免れ、高度な医療活動の維持につながりました。
それは、常に時代の「用」に応える日建設計のDNAが、
命に関わる「貢献」につながった出来事です。
この「石巻赤十字病院」の経験は、その後の医療機関の設計に活かされています。
また、日建設計の有志ボランティアチームが、都市・建築のプロフェッショナルの視点から、
災害時の避難経路を地図上に可視化するためのツール「逃げ地図」を開発。
個人やワークショップでの作成、さらにインターネット上での共有も可能なため、
全国の自治体や学校、海外に広がっています。

[⽯巻⾚⼗字病院 2011]

東日本大震災の経験と石巻赤十字病院の実績を活かし、日建設計は改めて災害に強い設計手法を検討し直した。
撮影:オノスタジオ

[⽯巻⾚⼗字病院 2011]

東日本大震災の経験と石巻赤十字病院の実績を活かし、日建設計は改めて災害に強い設計手法を検討し直した。
撮影:オノスタジオ

[逃げ地図]

災害時の避難時間を地図上に可視化できる逃げ地図は考案チームの⼿を離れ、さまざまな⾃治体で独⾃の発展を遂げている。

[逃げ地図]

災害時の避難時間を地図上に可視化できる逃げ地図は考案チームの⼿を離れ、さまざまな⾃治体で独⾃の発展を遂げている。

都市再編をマネジメントする

高度経済成長期から半世紀以上が経ち、当時のつくられた都市施設や建築物の更新・建て替えが必要になってきました。
複数の課題が生じるなかで最適解を得るためには、所有者が個別に対応するのではなく、
都市全体で計画的に更新していく必要があります。
都市再編の「用」に対して、
日建設計は社会環境デザインの専門家集団として、
単なる技術力やデザイン力を超えて、仕組みや仕掛けをデザインし、
多くの関係者の合意形成を図り、長期にわたってマネジメントを行うことで解決を図ってきました。
百年に一度と言われる「都市再生プロジェクト」が進む渋谷再開発はその具体例です。
都市再生においては、都市・建築・社会基盤の境界をなくし、
一体的に取り組むことが重要です。
渋谷再開発で実践している産官学民が協働する形は、
今後の都市再生・更新のモデルケースとして社会に「貢献」することでしょう。
プロフェッショナル・サービス・ファームである日建設計は
多種多様な専門性を融合し、新しい体験価値を提供し続けます。

[渋谷再開発プロジェクト]

複雑に絡み合っていた渋谷駅に対し、スムーズなアクセスを実現した「アーバン・コア」など新たな仕組みも誕生した。写真は、渋谷再開発を象徴する施設のひとつ「渋谷スクランブルスクエア第一期(東棟:2019竣工)」。
撮影:エスエス

[渋谷再開発プロジェクト]

複雑に絡み合っていた渋谷駅に対し、スムーズなアクセスを実現した「アーバン・コア」など新たな仕組みも誕生した。写真は、渋谷再開発を象徴する施設のひとつ「渋谷スクランブルスクエア第一期(東棟:2019竣工)」。
撮影:エスエス

[グランフロント大阪 2013]

「関西最後の一等地」と言われたJR大阪駅前貨物駅跡地に、水と緑をテーマとして人々に開かれた大阪の新しい顔を創出した。第二期として2024年から、約45,000㎡もの巨大な都市公園が駅前に順次誕生する。

[グランフロント大阪 2013]

「関西最後の一等地」と言われたJR大阪駅前貨物駅跡地に、水と緑をテーマとして人々に開かれた大阪の新しい顔を創出した。第二期として2024年から、約45,000㎡もの巨大な都市公園が駅前に順次誕生する。

カーボンニュートラルの社会環境デザインを拓く

オイルショック以降、日建設計は省エネ・省資源、
それらを進めた環境親和建築、さらに環境都市の実現に取り組んできました。
2000年代に入り、地球環境問題への取り組みが進み、
その中でもカーボンニュートラルへの対策が喫緊の課題となっています。
公立学校施設は建築後25年以上を経過した建物が全体の7割以上を占め、
環境対策が行われていない状況です。
文科省の旗振りで、公立学校施設でゼロエネルギー化を推進するためのスーパーエコスクール実証事業がスタート。
日建設計は、その「用」を背景とし、
岐阜県の「瑞浪北中学校」の「プロジェクト」に取り組みました。
設備のみならず、生徒がエコロジーや省エネを意識し、自ら行動することが大切と考え、
省エネ行動を喚起する仕組みを導入。
その結果、小中高校では日本で初めてZEB(Net Zero Energy Building)を達成。
ZEB化のひとつのモデルとして、全国に数多ある公立学校の可能性を拓いたことで、
今後のカーボンニュートラル促進に「貢献」できるプロジェクトとなりました。
日建設計は、ほぼ毎年、先進性・省エネルギー性・省資源性などに優れた施設を表彰する賞を多数受賞しています。
カーボンニュートラルは、日建設計のDNAに通じるプロジェクトであり、
今後も自然環境と人の営みを結びつける「貢献」を続けていきます。

[瑞浪北中学校 2018]

環境建築と空気や光の動きを⽇々意識して学校を使⽤する⽣徒の意識もゼロエネルギー実現への鍵となった。
画像は、各教室にある「エコモニター」を操作する生徒。
外観撮影:近代建築社

[瑞浪北中学校 2018]

環境建築と空気や光の動きを⽇々意識して学校を使⽤する⽣徒の意識もゼロエネルギー実現への鍵となった。
画像は、各教室にある「エコモニター」を操作する生徒。
外観撮影:近代建築社

[NBF ⼤崎ビル 2011]

打ち水からの着想で生み出された世界初の気化冷却外装システム「バイオスキン」が気化熱を利用して周辺温度を下げる。
ヒートアイランド現象を抑制すると同時にビル内部の冷房負荷を削減する。
外観撮影:野田東徳【雁光舎】

[NBF ⼤崎ビル 2011]

打ち水からの着想で生み出された世界初の気化冷却外装システム「バイオスキン」が気化熱を利用して周辺温度を下げる。
ヒートアイランド現象を抑制すると同時にビル内部の冷房負荷を削減する。
外観撮影:野田東徳【雁光舎】

[東京ガスアースポート 1996・2010]

熱と光をコントロールした省エネから、2010年、再生可能エネルギーと都市ガスの融合によるZEB実現を目指して改修を実施。
撮影:エスエス

[東京ガスアースポート 1996・2010]

熱と光をコントロールした省エネから、2010年、再生可能エネルギーと都市ガスの融合によるZEB実現を目指して改修を実施。
撮影:エスエス

社会環境デザインで、世界の都市問題を解く

中国、東南アジア、インド、中東、南米などの各都市では、
慢性的な交通渋滞が課題になっており、
移動手段を公共交通に転換する方法が模索されています。
その「用」に応えるのが、 TOD(Transit Oriented Development)。
TODは、車に頼らず公共交通機関の利用を前提に組み立てられた都市開発もしくは沿線開発のことです。
近年、渋谷再開発をはじめとする「都市再生プロジェクト」を実践している日建設計は、
新興国に対してプランニングやデザインという切り口で日本型TODを発進し、都市問題の解決に「貢献」をすることができます。
どのような仕組みで、どのようなプロセスを踏めば全体最適になるのか。
これまで培ってきた大きな意味でのデザイン力を発揮し、
海外市場でも積極的な取り組みを始めています。
「用」「プロジェクト」「貢献」のサイクルを継承し続ける日建設計は、
日本でも、世界でも、本質的な意味を追求した社会環境デザインを拓いていきます。

[重慶沙坪壩駅複合開発 2020] 

高速鉄道と地下鉄3線が接続する公共交通ハブに、商業、オフィス、ホテル・SA等からなる複合施設を一体的に開発した、延床面積約48万㎡の壮大なプロジェクト。
撮影:Large Format Photography Studio

[重慶沙坪壩駅複合開発 2020] 

高速鉄道と地下鉄3線が接続する公共交通ハブに、商業、オフィス、ホテル・SA等からなる複合施設を一体的に開発した、延床面積約48万㎡の壮大なプロジェクト。
撮影:Large Format Photography Studio

[深圳市西麗総合交通ハブ 2025完成予定]

中国最大規模の交通ハブ。駅まち一体開発(TOD)を進化させた「駅、まち、人、自然の融合」を提起し、未来のグリーン・低炭素都市をつくる。

[深圳市西麗総合交通ハブ 2025完成予定]

中国最大規模の交通ハブ。駅まち一体開発(TOD)を進化させた「駅、まち、人、自然の融合」を提起し、未来のグリーン・低炭素都市をつくる。

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