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住友春翠に始まる

 歴史は、「偶然」と「必然」が織りなす織物のようだと言われます。偶然とは言え住友家に男子直系が途絶えるという事態に直面し、住友という土壌に春翠(しゅんすい)という種子が蒔かれることとなりました。この住友春翠は、日建設計の源流である住友本店臨時建築部の誕生につき、非常に重要な存在でした。 

住友春翠とノブリス・オブリージュ(高貴なる責務)

 住友家は明治23年(1890)、12代家長友親・13代家長友忠が、相次いで急逝するという不幸に見舞われました。早急に13代家長の妹である満壽にふさわしい婿を選び、15代家長とすることが急務となったのです。その時に請われて住友家に迎えられたのが、英明の評判が高かった華族・徳大寺家6男・徳大寺隆麿でした。隆麿は、明治25年(1892)、住友家に迎えられて家督相続し、第15代住友吉左衞門友純(ともいと 1864~1926)となりました。ちなみに、長くフランスに留学し後に総理大臣等を務めた明治の元勲・西園寺公望(きんもち)は徳大寺家出身であり、隆麿すなわち住友吉左衞門友純の実兄にあたります。
 友純は「春翠(しゅんすい)」という雅号を終生使っており、後世の文献などでも住友春翠という呼称が多く使われています。春翠は、住友の事業経営を総理事などの経営陣に委嘱していました。しかし重大な問題においては、経営陣に理念と規範を示しており、その様子には欧州における貴族のあり方「ノブレス・オブリージュ(高貴なる責務)」を思わせるものがあります。
 一方、芸術への造詣も深く、各種美術の収集家としても知られていました。中でも現在、泉屋博古館(せんおくはくこかん)に収蔵されている中国古青銅器は、住友コレクションとして世界的に知られています。欧米の文化を積極的に摂取し、日本古来の伝統美にも造詣の深かった春翠の存在は、誕生まもない臨時建築部に大きな影響を与えることとなります。 
  • 2-8 住友家第15代家長住友吉左衞門友純
    雅号:住友春翠(しゅんすい)

  • 2-9 中国古青銅器 神鼓 紀元前11世紀
    (2-9~2-11:住友コレクションの一部)

  • 2-10 小井戸茶碗 銘 六地蔵

  • 2-11 クロード・モネ「モンソー公園」

近代銀行業の開設が、臨時建築部を創設する契機となった

 江戸時代の住友は、浅草の蔵前にも店を出し、蔵米の担保による 「札差」(ふださし)と呼ばれる当時の金融業も行っていました。しかし明治の貨幣経済の時代になってからは、近代銀行業を始めることが住友の重要課題となりました。
 明治28年(1895)、春翠の諮問機関として広島の尾道に招集された第1回重役会議において、近代銀行を設立する決定がなされます。同時にこの会議で、住友本店・銀行本店となる建物を「建築工事は数年を期し、充分堅固、百年の計を為す建築」として建設することも決定されました。この決定に従い、住友本店・銀行本店を建設するための営繕組織、すなわち住友本店臨時建築部が創設されることとなったのです。 

2-12 大阪の長堀川に面する鰻谷にあった住友家鰻谷旧本邸

社会貢献としての図書館寄贈

 春翠は明治30年(1897)、7か月に及ぶ欧米視察を行っています。シカゴでは、百貨店の事業で財を成したマーシャル・フィールドの寄附によって美術館が保存されたことに強い感銘を受けました。欧米では、成功した実業家が私財を投じて慈善事業や公共施設事業を支えていることを、春翠は学んだのです。
 春翠は帰国後、大阪府へ図書館を寄贈することを決意し、建物と図書および図書基金を寄贈することを大阪府に申し出ました。これが明治37年(1904)、住友本店臨時建築部の設計監理により竣工した大阪図書館すなわち現在の大阪府立中之島図書館です。 

2-13 シカゴ万博時の美術館は、マーシャル・フィールドの寄付によって保存され、現在ではシカゴ科学産業博物館となっている。

大阪北港株式会社の創設

 春翠は、大阪の貿易と商工業の発展には築港事業が不可欠であるとの信念から、大正8年(1919)に住友本店内に臨時土木課を設置し、大阪北港の事業を開始しました。同年、事業推進のため臨時土木課を独立させ、関係地主組合と共に大阪北港株式会社を設立するに至ります。戦後になって、住友商事がこの事業会社である大阪北港株式会社を継承しました。住友商事は、大正8年(1919)を創業年としています。
 一方、この大阪北港株式会社の土木技術は、戦後の日建設計工務の土木部門に継承されました。現在の日建グループ会社である日建設計シビルの源流は、ここにあります。

2-14 大阪北港 俯瞰図

「信用を重んじ、確実を旨とすべし。」
「時代の進運を察知し、世の進歩に遅れざるよう事業の興廃を行うこと。」
「如何なる場合も、浮利に趨(はし)って軽率に取り進めてはならぬ。」

 上記の言葉は、明治24年(1891)に制定された住友家法からの抜粋です。この家法は、1650年頃に初代・住友政友(まさとも)が記した「文殊院旨意書(もんじゅいん しいがき)」の思想が原点となっています。政友以来受け継がれてきたこの精神は、住友の「土壌」となっており、この「土壌」に蒔かれた「春翠という種子」から、今では多くの大木が育っています。 
(参考文献)
「住友春翠」編纂委員会(1955)『住友春翠』住友春翠編纂委員会
藤本 鐵雄     (1993)『「明治期」の別子そして住友 - 近代企業家の理念と行動 -』御茶の水書房
住友商事株式会社  (1985)『住友の風土』住友商事株式会社
          (1972)『住友商事株式会社社史』住友商事
朝尾直弘監修 住友史料館編集(2013)『住友の歴史 上巻』思文閣出版
朝尾直弘監修 住友史料館編集(2014)『住友の歴史 下巻』思文閣出版
出典
2-8,2-12,2-14:住友史料館所蔵
2-9~2-11:泉屋博古館所蔵
2-13:フリー百科事典「Wikipedia」

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