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簡素にして確実を旨とすべし -住友ビルディングの完成-

遂に住友ビルディングの設計が始まった

3-13 大正13年(1924)に発行された大阪市パノラマ地図
   土佐堀川と西横堀川の交点の敷地に、2階建の住友総本店仮建物が描かれている(○印のところ)。
   敷地の北側空地が、第1期工事敷地。この敷地には、かつて日本銀行大阪支店があった。
   中之島には大阪市役所や大阪図書館も描かれている。

 明治28年(1895)、尾道で開かれた住友本店の第1回重役会議において、「住友本店・銀行本店の建築工事は数年を期し、充分堅固、百年の計を為すこと」という決議がなされました。その決議に付随して本店新築のための臨時建築部が設けられましたが、臨時建築部にとって念願の建設の機が熟し始めるのは、実に21年の歳月が流れた、大正5年(1916)ごろのことでした。
 住友が明治38年(1905)に日本銀行から大阪支店跡地を購入した敷地の南半分には、明治41年(1908)に竣工した2階建ての住友総本店仮建物が、木造とは思えないほど瀟洒な建築様式で建てられていました。しかし、住友各事業の急速な拡大と、中国・アメリカ・英国・インドに支店を開設するなどの銀行業務の拡大にはその建物では対応できず、いよいよ長年の懸案であった住友ビルディングの建設が現実のものとなってきたのです。

 当時の日本は、第一次世界大戦中の好景況から一転し、大戦後の昭和金融不安や株価の暴落など厳しい経済状況下にあったため、住友ビルディングの建設においても、当時の社会状況を見極めながら工事を進めることが重要でした。仮本店を移す適当な土地がなかったこともあり、社会状況を確かめながら工事を進めるため、工事は2期に分けられることとなったのです。
 大正9年(1920)、住友総本店工作部内に具体的な設計体制が組まれました。調査のため長期に欧米へ派遣されていた長谷部鋭吉も出張を半ばで切り上げ、長谷部の帰国と同時に本格的な設計が始まっています。
 大正12年(1923)に関東大震災が発生しましたが、その惨状を東京で目にした住友春翠は、当初7階建の設計を5階建に変更する指示を出しました。最終的に屋上階付5階建とする設計変更がなされています。また、関東大震災時の日本橋の東京支店で効果を発揮した防災設計にも、更に検討を加えた設計となりました。

3-14 住友ビルディング(現 三井住友銀行大阪本店)
   第1期大正15年(1926) 第2期 昭和5年(1930)新築時の写真。
   ちなみに西横堀川に架かる両国橋も長谷部鋭吉が設計。

長谷部鋭吉と竹腰健造を中核として、組織的な連携で仕事を遂行

 住友総本店のある書類に、「本工事は大正9年4月、日高技師を全設計の監督及び校査者とし、長谷部技師を立面図主査、竹腰技師を平面図主査、光安技師を構造主査として準備を始め・・・」という記述が見られます。
 住友春翠は、早くから住友の主要な職員を欧米に留学もしくは長期出張させていますが、日高胖にも明治41年(1908)に約1年にわたる欧米出張を命じていました。本店建設の調査であったことは言うまでもありません。
 日高胖が帰国した明治42年(1909)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した長谷部鋭吉が住友総本店に入っています。そして3歳年下の竹腰健造が大正6年(1917)、東京帝国大学建築学科を卒業して英国で3年半の留学を終えた後、住友総本店に入社しました。この長谷部と竹腰の2人が、住友合資会社工作部の次世代を担うこととなります。記述の中の光安技師とは、工手学校(現 工学院大学)を卒業し明治34年(1901)に臨時建築部に入った臨時建築部第一世代の光安梶之助のことです。鉄骨鉄筋コンクリート造の構造設計を担当していました。
 設備設計は、当時の日本の大規模建築における電気・暖房・衛生などの製品や技術は未熟な段階にあったため、ニューヨーク連邦準備銀行の設備設計を担当したテニー・アンド・オームス社に依頼しています。竹腰健造がニューヨークで、この設備設計事務所選定の任にあたっていました。設備設計の実務上の調整についても竹腰が行っており、竹腰は現代で言うところのプロジェクト・マネジメントも行っていたと言えるでしょう。設計チームの組織的な連携で設計監理業務を遂行することは、日建設計の大きな特徴の一つですが、その萌芽をここに見ることができます。

3-15 1階部矩計図
   窓枠と一体に取り付けられた防火シャッターも描かれている。

簡素な中に気品のある建築

 大正15年(1926)の第1期工事竣工に続き、昭和5年(1930)に第2期工事が竣工しました。水都・大阪の土佐堀川と西横堀川が交わる地に、装飾を排した東洋的とも言える簡潔な外観の全容が現われたのです。
 北面・西面・東面の三方では、両脇にイオニア式の柱を配した彫りの深いエントランスが、気品を持って人々を迎えています。エントランス廻りの外壁仕上げは播州で切り出された竜山石の本石張りですが、外壁の大部分は竜山石とイタリア産トラバーチンを使用した厚さ2寸(約60mm)の擬石が使われました。その北側正面立面は、黄金比を用いたと思われる緻密なプロポーションによる構成となっています。すべての窓には関東大震災で効果が実証された防火シャッターが設置されていました。
 1階の営業室では、上部の光庭から自然光が降り注ぎ、堂々と並ぶ31本のコリント式の列柱が銀行事業の永続性を象徴しています。柱頭はコリント式ですが、柱身は滑らかなトラバーチンの円柱となっており、古典様式でありながら上品な軽やかさと華麗さを持つバンキングホールとなっています。
  • 3-16 玄関部外壁のディテール

  • 3-17 営業室 詳細図

 この時代の欧米では、当時の新しい技術を基礎に純粋な古典建築様式から脱皮する建築様式が生まれていますが、住友ビルディングの設計にも、当時の欧米と同時代的な動向を感じ取ることができます。その同時代的なものが、東洋的な風韻を持ちながら実現されているのです。この西洋と東洋を融合させた建築を作りあげたことに、大きな意義があると思われます。
 意匠設計を担当した長谷部鋭吉をはじめとする設計者達の豊かな感性と品格ある人間性まで窺うことのできる、日本の近代建築史上に残る仕事となりました。

「信用を重んじ 確実を旨とすべし」これは、明治24年(1891)に定められた住友家家法第一条にある言葉です。住友ビルディングは、この精神を具現化した、簡素で気品ある建築と言えるでしょう。
 同時に「百年の計を為す建築」と明治28年(1895)の尾道会議で決議されたこの建築は、現代において保存することが決定され、設備を中心とする大規模な改修工事の設計が行われることとなりました。
  昭和5年(1930)の完成後85年を経た平成27年(2015)、歴史的な風韻を現代に継承するための大規模改修工事が竣工しました。

3-18 新築時の営業室
   顧客カウンター上の優美なブロンズ製スクリーンは、
   戦時中の金属回収令で取り外され、軍事物資として供出された。

(参考文献)
住友銀行編         (1979)『住友銀行 八十年史』住友銀行 行史編纂委員会
住友商事株式会社社史編纂室 (1972)『住友商事株式会社史』住友商事
坂本 勝比古        (1980)『日本の建築 明治大正昭和 5商都のデザイン』三省堂
與謝野 久             一水会80周年記念講演資料より
                  『住友ゆかりの建築に見る「進取と調和」のこころ』
小西 隆夫         (1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社
竹腰 健造         (1980)『幽泉自叙』創元社
「住友春翠」編纂委員会   (1955)『住友春翠』住友春翠編纂委員会
出典
3-13 『大正13年大阪市パノラマ地図』(発行:デジタルマップス)
3-14 『建築と社会』昭和10年11月1日号(日本建築協会)
3-16  撮影:河合止揚
3-18 『建築と社会』昭和10年11月1日号(日本建築協会)

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