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営繕直営方式の遺伝子

 明治時代から昭和初期まで、住友などの財閥や政府の重要な建築物の発注においては、現在のように一括請負を通すのではなく、発注者自身の中に営繕組織を作り直営で工事を進める「直営方式」が一般的でした。この直営方式は、本格的な西洋技術の導入に相応しい工事方式だったのです。

官庁・財閥による営繕直営方式

 官庁や財閥の中には、西洋の進んだ技術を導入するためイギリス・ドイツ・フランス・アメリカ等の先進各国から建築家・技術者を招聘、もしくは海外の建築事務所や施工会社に直接発注するところがありました。しかし住友では、臨時建築部がその直営方式のすべての任にあたっていました。
 建築主自身の中に設計組織を持ち、建築主自ら様々な種類の工事を直接に発注していた「直営方式」では、その営繕部が設計図を作成していました。また工事においては、その営繕部が基礎・主体・設備・内装など工事区分ごとに各専門施工者に発注し、主要資材を吟味の上、自ら調達・支給し、各請負者の間を調整しつつ施工を監督して工事を完成させていました。現在の建築基準法のような規準法規もなく、近代的建築請負制度が未成熟な当時にあって、このような「直営方式」が、重要な建物において一般的な発注方式でした。
 官庁建築でも重要なプロジェクトは、官庁営繕組織の直営方式で行われていました。その事例として、日本銀行臨時建築部や国会議事堂を建設するための大蔵省臨時議院建設局などを挙げることができます。これらの営繕組織にも「臨時」という名が付けられていました。住友本店臨時建築部と同じように、基本的にはプロジェクトごとに組織され目的が達成されれば解散する性格を持っていたのです。

3-19 三井本館 昭和4年(1929)(東京)
設計は、ニューヨークの著名な建築事務所であったトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所。施工は、アメリカで一流建設会社であったジェームズ・スチュアート社。当時のアメリカで一世を風靡していた重厚華麗なアメリカン・ボザール様式で設計された。簡素端麗な住友ビルディングと好対照をなしている。

日本の総合建設請負会社(ゼネコン)の曙

 現在、日本の総合建設請負会社(ゼネコン)は世界的に見ても極めて高い技術水準を持つに至っていますが、その曙も明治初年にあります。江戸時代、大名屋敷・寺社などの建築工事や橋・堤の土木工事などの大規模工事を手掛ける大工棟梁の中に、一括して仕事の完成を約束する「請負」を行うものが現れました。このような請負が日本の総合建設業のルーツとなっています。
 その後明治初期の請負の中に、従来の優れた木造建築技術を基礎に西洋様式建築に取り組み、西洋技術の導入に積極的に取り組んだところが現れました。また、英国人建築家ジョサイア・コンドル設計による鹿鳴館のような本格的な西洋様式建築の建設にも、海外での資材調達も遂行できる新しい体制で積極的に取り組む請負会社も現れています。
  • 3-20 三井組ハウス 明治5年(1872)(東京)
    横浜の居留地で経験を積んだ棟梁・二代目清水喜助により三井の建物として竣工。この建物は、翌年創設された第一国立銀行(後の第一銀行、現みずほ銀行)に譲渡された。ちなみに政府による日本銀行の創設は明治15年。二代目に先立つ初代・清水喜助が現在の清水建設を創業している。

  • 3-21 鹿鳴館 明治16年(1863)(東京)
    設計は、工部工学校(現 東京大学工学部)の教官としてイギリスから招聘されたジョサイア・コンドル。建設を請け負ったのは現在の総合商社にあたる「大倉組商会」を設立した大倉喜八郎。銀座煉瓦街の建設にも携わっていた大倉喜八郎は、近代建設業へも進出し、現在の大成建設を創業した。

住友ビルディングのため、竹腰健造は米国で建築資材を調達していた

 大正9年(1920)、臨時建築部の後身である住友合資会社工作部は、念願の住友ビルディングの設計に着手し、大正11年(1922)に設計完了しましたが、引き続き海外での建築資材調達が始まっています。このプロジェクトから、当時の住友営繕直営方式による工事の一端を窺うことができます。
 住友ビルディングの中心的設計者は日高胖・長谷部鋭吉・竹腰健造の3人ですが、その中の竹腰健造が、鉄骨・スチールサッシュ・エレベータ・金庫扉をはじめとする膨大な量の建築資材の吟味・調達を、1年余りニューヨークに滞在し米国で行っていました。当時としては、欧米と同じ水準の品質の高い建築を実現する上で、必須の業務だったのです。
 竹腰は英国で建築家の教育を受け、英国建築家資格も取得し設計実務を行っていましたが、貿易実務については全くの素人でした。竹腰の自叙伝である『幽泉自叙』(ゆうせんじしょ)では、貿易実務書を読みながら住友銀行外国課に教えを請い、不慣れな貿易実務をこなしていたと述べています。竹腰は後年、住友に商事機能が必要であることを住友本社に熱心に提案していました。
 現在の住友商事と日建設計の共通の前身であり、終戦直後に設立された日本建設産業の初代社長には、この竹腰健造が就任しています。

3-22 竹腰健造は、米国大手2社の金庫扉製作所の選択に迷った末、ある一方の製作所を選択した。後に日本銀行も厳しい調査の上、同じ製作所を選択していたことを知り、安堵したことを「幽泉自叙」で述べている。 この一文から、若年ながら大きな責任を負ってニューヨークで購買調達 を行っていた竹腰の気苦労が窺える。

 この住友営繕直営方式は、建築資材の調達という商事機能を行っていたことから、現在の住友商事が誕生する源流の一つだったと言えるでしょう。同時に現在の日建設計においては、監理部や積算を担当する工務部のルーツでもあります。日建設計の特徴である設計仕様書の水準も、当時の営繕直営方式の中で確立して以来、保ってきたものです。現在の日建設計コンストラクション・マネジメントのCM・PM方式の原点も、この営繕直営方式に遡ります。
  • 3-23 復元された三菱一号館(現 三菱一号館美術館)
    三菱一号館 明治27年(1894)(東京)設計は、三菱社の顧問でもあったジョサイア・コンドル。三菱社は、明治23年(1890)、軍の練兵場となっていた丸の内を政府より入札払下げを受け、丸の内一帯の開発を始めた。同年「丸の内建築所」が設置され、曾禰達蔵、桜井小太郎などの優れた建築家を輩出した。現在では三菱地所設計となっている。

  • 3-24 日本銀行本店(東京)
    旧館本館は辰野金吾の設計により明治29年(1896)に竣工しているが、昭和2年(1927)に増築のため、長野宇平治を技師長として日本銀行臨時建築部が設けられた。増築が竣工した昭和13年(1938)、その臨時建築部は事実上解散となり、その首脳技師の一人であった尾崎久助を、長谷部・竹腰建築事務所が副所長兼東京事務所長に迎えた。戦後、この尾崎久助が、日建設計工務の初代社長となっている。

  • 3-25 日本銀行2号館、3号館(東京)

(参考文献)
小西 隆夫   (1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社
竹腰 健造   (1980)『幽泉自叙』創元社
大成建設    (2013)創業140周年記念DVD 『大成建設 140年のあゆみ』大成建設
清水建設        ホームページ 創業200年記念 『清水建設の歴史』
坂本 勝比古  (2000)「日建設計の100年」『建築と社会』(2000年8月号)日本建築協会
三菱地所編   (2012)『三菱1号館美術館 丸の内に生まれた美術館』武田ランダムハウスジャパン
三菱地所設計      ホームページ
出典
3-20 日本銀行貨幣博物館所蔵
3-21 国立国会図書館所蔵
3-22 (1935)『建築と社会』(11月1日)日本建築協会
3-24 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省

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