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長谷部・竹腰建築事務所の設立 -大恐慌の嵐の中へー

 第一次世界大戦後の1920年代、戦争による疲弊で購買力が低下していたヨーロッパ各国では、ロシア革命によるソ連の世界市場からの離脱も重なり、市場の収縮が続いていました。ところがアメリカでは、ヨーロッパ各国への輸出など大戦による好景気で生産過剰になっており、投機熱も煽られていたのです。
 1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、これを端緒に世界各国を金融大恐慌が襲うことになりました。1923年の関東大震災や昭和金融恐慌で弱体化していた日本経済も、その恐慌の波をまともに被っています。都市部では多くの会社が倒産し失業者が街にあふれ、冷害による凶作が続いていた農村部では、追い打ちをかけるように米・繭の価格が半値近く暴落し、昭和三陸地震津波(1933)の被害も加わって悲惨な状況となっていたのです。

4-1 大恐慌時のニューヨーク・ウォール街
   右端の建物が証券取引所

住友においても、人員整理が進められた

 関東大震災に続く昭和金融恐慌でも大きな打撃を受けなかった住友でしたが、世界規模の大恐慌により、事業の深刻な悪化が起きることになりました。昭和7年(1932)には昇給を停止し、人員整理を行わざるを得ない状況となります。当時、住友合資会社(住友総本店の後身)工作部と呼ばれていた設計・監理部門では、最盛時には140名ほどいた人員も次々と解雇されることとなりました。竹腰健造の自叙伝『幽泉自叙』(ゆうせんじじょ)では、竹腰自身が部員に解雇を言い渡す苦渋が切々と綴られています。
 工作部員が30人ほどに減った昭和8年(1933)、当時のリーダーであった長谷部鋭吉と竹腰健造は、これ以上、工作部員の離散を見るに忍びないとして、自らも住友を離れ、建築事務所を部員と共に設立し、活路を開くことを決意しました。

不況の嵐の中へ

 未曽有の不景気風が吹き荒れる社会の中に、覚悟を決め船出する長谷部・竹腰以下30名の決意に対し、住友合資会社は、資本金を貸し出すなど恩情のこもった扱いで送り出しています。最初の1年目は、賞与も出せない厳しい状況でしたが、工作部時代に委託を受けていた大阪株式取引所の仕事を長谷部・竹腰建築事務所が継承していたことが幸いし、徐々に苦境から脱出できるようになりました。この頃アメリカでは、ルーズベルト大統領によるニューディール政策で経済回復の兆しを見せ始め、我が国では、公債を増発し軍事予算を増加するなど積極インフレ政策に転じることで、明らかに軍需景気であったものの、景気も徐々に回復の兆しを見せています。
  • 4-2 長谷部鋭吉 (1885~1960)

  • 4-3 竹腰健造 (1888~1981)

 独立して最初の仕事が大阪株式取引所でしたが、住友家の持仏堂である「芳泉堂」、設計競技で当選案に採用された「東京手形交換所」、そして「日本生命保険本店本館」などの設計監理の委託も受けています。住友金属工業の和歌山や中国奉天(現:瀋陽)の製鋼所、住友電気工業の工場など、多くの生産施設の設計・監理の委託も受けることとなりました。江田島海軍兵学校や舞鶴海軍工廠など、海軍関係の仕事も行っています。このような業務の拡大に伴い長谷部・竹腰建築事務所は、東京支店(1938)・満州支店(1940)・名古屋出張所(1939)も開設し、設立から10年で所員250名の大所帯となりました。

4-4 江田島海軍兵学校新生徒館 (1938年)

「所員心得」

 昭和8年(1933)に長谷部・竹腰建築事務所を設立した際、工作部時代の行動規範を改めて「所員心得」とし、事務所運営の指針が示されました。その内容は、人格を高め、健康に留意し、将来を見据えた新鮮で的確な提案をし続けること、設計技術の切磋琢磨、設計・監理の品質管理、設計の守秘義務、原図の保管などに言及しているものです。また職業倫理についても、施工者には公正親切に指導し、いささかも不遜な態度があってはならないこと、工事関係者からの物品の贈与や饗応を厳格につつしむことなどが具体的に示されています。その「所員心得」は34項目にわたっており、その表現は次の例のように極めて平易なものでした。
「一、 建築の設計監督に携わるものは其業務の関係上、品性の陶冶に務め、真に技術者としても社会人としても、世人の信頼を得るに足る人となる事に努力しましょう。」

4-5 日本神学校(1937年)現在は東京ルーテルセンター
長谷部鋭吉の人柄を、竹腰健造が次のように語っている。
「私は、長谷部さんを明治・大正・昭和の三代を通じてもっとも優れた芸術的な建築家であったと思う。またそれにも増して、もっとも立派な人間であったと敬慕している。・・・(中略)・・・いずれの作品の場合でも、その根幹をなすものはいわゆる気韻静動、気品に富むことである。これは長谷部さんの人柄の反映である。」 戦前からカトリックをはじめとする深い精神性を体得していた長谷部鋭吉は、戦後に洗礼を受け、敬虔なクリスチャンとして昭和35年(1960)温厚篤実の生涯を終えた。

「器」としての法人形態と、その中に入る「精神」

 長谷部・竹腰建築事務所は、株式会社の法人形態による建築設計事務所として設立されています。日本では最初のことでした。当初に借入していた資本金も業務拡大に伴い返済し、昭和12年(1937)には名実ともに長谷部と竹腰の2人のオーナーシップによる建築設計事務所となりました。欧米で言うところの「プロフェッショナル・コーポレーション」に相当する法人形態としたのです。この株式を外部に出さない法人形態は、現在の日建設計の社内株主制度に繋がっています。
 この「器」としての法人のあり方と、「所員心得」に示された精神は、現在の日建設計に引き継がれています。これらは、長谷部・竹腰建築事務所設立時に、原形として形作られたものだったのです。
 昭和15年(1940)大阪の北浜五丁目十三番地に、ささやかながら延坪138坪の自社オフィスが建設されました。しかし時節柄、鉄筋は使用できず、竹・木そして針金番線の金網を代用した無筋コンクリート造でした。

4-6 東京手形交換所透視図 (1937年竣工) 竹腰健造 画
この透視図を描いた竹腰健造は、30歳まで3年半イギリスに留学していた。この間、RIBA(Royal Institute of British Architects/王立英国建築家協会)の建築家資格試験に合格しているが、エッチング画家としても画商がつくほど優れた才能を示していた。一方、住友入社後から終生、金剛流の能に親しんでおり、玄人も一目置く才能を示していた。昭和18年(1943)、自作能「世阿弥」でシテを務めている。能に関する著作も2冊ある。

長谷部・竹腰建築事務所の表記について

 正式表記は「長谷部竹腰建築事務所」です。これは、長谷部と竹腰の2人が一体となった建築事務所であり、「・」は入れないというものでした。したがって、建築事務所の魂の一部である設計図書では、その押印を「・」なしの表記としていました。この表記からも、長谷部と竹腰による、設計事務所運営に臨む意気込みを窺うことができます。
 しかし、「・」を入れないと分かりにくいことも事実です。後年、竹腰自身の自叙伝では、「・」を入れた分かり易い表記としています。この連載では、分かり易さのため「・」を入れた表記としました。ちなみに小西隆夫著『北浜五丁目十三番地まで』では「・」ありの表記を、橋本喬行著の『北浜五丁目十三番地から』では「・」なしの表記が採られています。
  • 4-7 鐘淵紡績丸子工場(1936年)

  • 4-8 満州住友金属工業鞍山鋼管工場の鋼管溶接・リベット併用構造(1941年)
    当時の溶接は造船会社やボイラーの製缶には使用されていたものの、建築の鉄骨加工業者には導入されていなかった。長谷部・竹腰建築事務所では、この時代に先駆的に溶接構造に取り組んでいた。

  • 4-9 竹腰自身による表紙のエッチングは西横堀川を描いている。

(参考文献)
竹腰 健造      (1980)『幽泉自叙』創元社
竹腰 健造      (1958)『能楽三昧』わんや書店
長谷部・竹腰建築事務所(1933)『所員心得』長谷部・竹腰建築事務所
小西 隆夫      (1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社
日建設計       (2000)『設計の技術 日建設計の100年』日建設計
               「世界恐慌」 『Wikipedia』
出典
4-1 フリー百科事典『Wikipedia』
4-5~8 長谷部竹腰建築事務所 作品集
4-9 竹腰健造(1980)『幽泉自叙』創元社

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