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長谷部・竹腰建築事務所の設立 -大恐慌の嵐の中へー
1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、これを端緒に世界各国を金融大恐慌が襲うことになりました。1923年の関東大震災や昭和金融恐慌で弱体化していた日本経済も、その恐慌の波をまともに被っています。都市部では多くの会社が倒産し失業者が街にあふれ、冷害による凶作が続いていた農村部では、追い打ちをかけるように米・繭の価格が半値近く暴落し、昭和三陸地震津波(1933)の被害も加わって悲惨な状況となっていたのです。
4-1 大恐慌時のニューヨーク・ウォール街
右端の建物が証券取引所
住友においても、人員整理が進められた
工作部員が30人ほどに減った昭和8年(1933)、当時のリーダーであった長谷部鋭吉と竹腰健造は、これ以上、工作部員の離散を見るに忍びないとして、自らも住友を離れ、建築事務所を部員と共に設立し、活路を開くことを決意しました。
不況の嵐の中へ
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4-2 長谷部鋭吉 (1885~1960)
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4-3 竹腰健造 (1888~1981)
4-4 江田島海軍兵学校新生徒館 (1938年)
「所員心得」
「一、 建築の設計監督に携わるものは其業務の関係上、品性の陶冶に務め、真に技術者としても社会人としても、世人の信頼を得るに足る人となる事に努力しましょう。」
4-5 日本神学校(1937年)現在は東京ルーテルセンター
長谷部鋭吉の人柄を、竹腰健造が次のように語っている。
「私は、長谷部さんを明治・大正・昭和の三代を通じてもっとも優れた芸術的な建築家であったと思う。またそれにも増して、もっとも立派な人間であったと敬慕している。・・・(中略)・・・いずれの作品の場合でも、その根幹をなすものはいわゆる気韻静動、気品に富むことである。これは長谷部さんの人柄の反映である。」 戦前からカトリックをはじめとする深い精神性を体得していた長谷部鋭吉は、戦後に洗礼を受け、敬虔なクリスチャンとして昭和35年(1960)温厚篤実の生涯を終えた。
「器」としての法人形態と、その中に入る「精神」
この「器」としての法人のあり方と、「所員心得」に示された精神は、現在の日建設計に引き継がれています。これらは、長谷部・竹腰建築事務所設立時に、原形として形作られたものだったのです。
昭和15年(1940)大阪の北浜五丁目十三番地に、ささやかながら延坪138坪の自社オフィスが建設されました。しかし時節柄、鉄筋は使用できず、竹・木そして針金番線の金網を代用した無筋コンクリート造でした。
4-6 東京手形交換所透視図 (1937年竣工) 竹腰健造 画
この透視図を描いた竹腰健造は、30歳まで3年半イギリスに留学していた。この間、RIBA(Royal Institute of British Architects/王立英国建築家協会)の建築家資格試験に合格しているが、エッチング画家としても画商がつくほど優れた才能を示していた。一方、住友入社後から終生、金剛流の能に親しんでおり、玄人も一目置く才能を示していた。昭和18年(1943)、自作能「世阿弥」でシテを務めている。能に関する著作も2冊ある。
長谷部・竹腰建築事務所の表記について
しかし、「・」を入れないと分かりにくいことも事実です。後年、竹腰自身の自叙伝では、「・」を入れた分かり易い表記としています。この連載では、分かり易さのため「・」を入れた表記としました。ちなみに小西隆夫著『北浜五丁目十三番地まで』では「・」ありの表記を、橋本喬行著の『北浜五丁目十三番地から』では「・」なしの表記が採られています。
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4-7 鐘淵紡績丸子工場(1936年)
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4-8 満州住友金属工業鞍山鋼管工場の鋼管溶接・リベット併用構造(1941年)
当時の溶接は造船会社やボイラーの製缶には使用されていたものの、建築の鉄骨加工業者には導入されていなかった。長谷部・竹腰建築事務所では、この時代に先駆的に溶接構造に取り組んでいた。 -
4-9 竹腰自身による表紙のエッチングは西横堀川を描いている。
竹腰 健造 (1980)『幽泉自叙』創元社
竹腰 健造 (1958)『能楽三昧』わんや書店
長谷部・竹腰建築事務所(1933)『所員心得』長谷部・竹腰建築事務所
小西 隆夫 (1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社
日建設計 (2000)『設計の技術 日建設計の100年』日建設計
「世界恐慌」 『Wikipedia』
4-1 フリー百科事典『Wikipedia』
4-5~8 長谷部竹腰建築事務所 作品集
4-9 竹腰健造(1980)『幽泉自叙』創元社