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日建設計工務の設立 —「戦後」という若々しい精神—

 かつて長谷部・竹腰建築事務所が、大恐慌の嵐の中に飛び込むように「住友」を離れ船出しましたが、それから17年後の昭和25年(1950)7月1日、その系譜に連なる97名の人々が、再び「住友」から船出するように戦後の混乱した世相の中に独立しました。日建設計工務株式会社の設立です。

高度経済成長と社会の大きな変化

 奇しくもその6日前の6月25日、米ソの対立を背景に軍事的緊張が高まっていた朝鮮半島において朝鮮戦争が勃発しました。韓国を支援する米軍の後方兵站基地であった日本では、大量の物資が買い付けられ、朝鮮特需が起きています。この特需は、神武景気・岩戸景気と呼ばれる景気拡大につながり、昭和36年(1961)まで高度経済成長第一期が続くこととなりました。
 急速な工業化に伴う工場建設、経済成長に伴う企業のオフィス建設、新しい民主主義の象徴として各地で進んだ庁舎建設、時代に合わせて進化する病院や学校、更にはニュータウンの都市計画など様々な建設需要が喚起されました。そして日建設計工務も、新しい社会が必要とする新しい時代の建築や都市を設計する組織として、急速に職員数規模が拡大することとなりました。
昭和35年(1960)に700名、昭和45年(1970)には1000名を数えています。

5-5 昭和21年(1976)、焼け残った長谷部・竹腰建築事務所の無筋コンクリート旧社屋の前に、応急用の住宅・事務所の見本として建てられたジュラルミンハウス。住友金属の航空機用ジュラルミン板を利用して製作された。占領軍のキャンプ用兵舎に似ているため、当時の職員から「カマボコ兵舎」と呼ばれていた。終戦直後、日本建設産業の建築土木設計部門のオフィスであったが、日建設計工務の設立後は、その本社となった。この住所が「北浜五丁目十三番地」である。

「戦後」という若々しい精神

 江戸期以来、日本では2回、社会全体の大きな価値観の大きな変化が起きています。1つは、江戸から明治に変わる時代の、西洋文明をほぼ全面的に受容しようとした変化です。世界史上、西洋とは違う文明をもっていた国家で、西洋文明の世界観へ自らを自主的に変化させた事例は稀であるとのことです。もう1つは、戦後の民主主義的価値観への変化でした。敗戦という大きな契機があったものの、この時も価値観の大きな変換を起こしています。建築や都市の分野においても、新しい価値観のもと、それまでの因習に捉われず「あるべき姿」を求めようとする思潮が主流となりました。

5-6 日本板硝子舞鶴工場 昭和33年(1958)

 1950年代になると戦火による国土の荒廃から立ち直り、様々な分野で「戦後」という若々しい精神が立ち上がって来ています。建築の分野においても、著しい勢いで進行する都市化や生活様式の変化、進歩する技術への信頼、そして新しい社会を築こうとする意欲などを踏まえ、「戦後モダニズム」と呼ばれるムーブメントが顕著となりました。また、怒涛のように押し寄せるアメリカ文明に呑み込まれるのではなく、いかに日本の伝統的な価値や文化を国際的視野のもとで活性化するのかという真摯な努力も行われています。
 戦前までの日本の建築デザインの世界においても、フランス・ドイツ・アメリカなど海外の影響を受けた様々なスタイルのモダニズムが現れていました。しかし、住友本店臨時建築部から長谷部・竹腰建築事務所に至る流れの中にいた人々は、そのような動向に敏感ではありましたが、戦前までの経済界の中枢となっていた人々の文化を反映し、新しい感覚ではあるものの歴史主義的なデザインを主流としてきました。

5-7 神戸市新丸山住宅団地計画 昭和43年(1968)
   当時制定された新住宅市街地開発法に基づき開発された。現在、神戸市北区ひよどり台となっている。

  しかし戦後になり、日建設計工務では、大きく変化する社会の動向を見据え、若い才能ある設計者達を経営的・技術的にバックアップし、彼らが新しい社会の中で活躍できる機会を積極的に作り出しました。
  • 5-8 公立豊岡病院 昭和31年(1956)
    戦後、新しい病院建築のあり方を研究していた山根正次郎を中心に設計監理された。その後、時代と共に変化し続ける医療技術や病院建築の考え方の研究は、現在の日建設計の病院設計チームに引き継がれている。

2人のリーダー

 このような若々しい戦後の日建設計工務に、2人のリーダーが現れました。大阪の薬袋公明(みない・きみあき)と、東京の林昌二(はやし・しょうじ)です。
 薬袋公明は、長谷部・竹腰建築事務所時代から脈々と受け継がれてきた歴史と伝統を背景に、大阪の地を拠点として新しい時代に相応しい数々の建築を生み出しました。県庁舎などが戦後の民主主義を体現する時代にあって、薬袋グループの設計による広島県庁舎(昭和31年<1956>竣工)は、この時代を代表する県庁舎の一つとなっています。また、高松の百十四銀行本店(昭和41年<1966>竣工)では、都市景観形成への積極的な提案を伴う新しい銀行本店の姿を提案しています。
 林昌二は、世界的メガロポリスへと成長し続ける東京を活躍の舞台に、新しい技術を積極的に取り込み、この時代の日本を代表する新しい建築を生み出しました。林昌二が飛行機の設計に強い関心を持っていたことに示唆されるように、林に率いられた設計グループは、新技術による新しい時代の空間づくりを志向していました。パレスサイドビル(昭和41年<1966>竣工)、銀座の三愛ドリームセンター(昭和38年<1963>竣工)、ポーラ五反田ビル(昭和46年<1971>竣工)など、次々と当時の建築界に影響を与える仕事をしています。
  • 5-9 薬袋 公明(1926~2007)

  • 5-10 林 昌二(1928~2011)

「ゼロの地点」から出発した建築

 この「戦後」という時代では、建築をはじめとして美術・映画・文学などの各分野でも、明快に言葉にはできない固有の「溌剌として充実した存在感」が顕れています。この存在感は、「ゼロの地点」から出発した戦後精神の逞しさに由来していることは確かでしょう。日建設計工務のこの時代の仕事も、独特の存在感があり、現在の我々に強烈な光を放っています。これらの仕事には、「日建設計工務の戦後モダニズム」と呼べる何かがあるのかもしれません。
  • 5-11 三愛ドリームセンター 昭和38年(1963)

  • 5-12 三愛ドリームセンター 昭和38年(1963)
    中央の円筒形コアの周囲に、工場で製作されたドーナツ型のPSコンクリート床版が、上から順にリフトアップ工法で取り付けられた。このデザインは、銀座という厳しい工事条件から考案されたものだったが、珍しい工事の進行は、人々の注目を集め、工事そのものがパフォーマンスとなった。更に上棟した日の夜、フランキー堺が、スポットライトを浴びつつドラムを叩きながらゆっくりと降りてくるパフォーマンスも当時話題となっている。

(参考文献)
日建設計・林グループ+SD編集部 (1973)『空間と技術 日建設計・林グループの軌跡』鹿島出版会
小西 隆夫 (1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社
橋本 喬行 (1999)『北浜五丁目十三番地から』創元社
鈴木 博之 (1984)『建築の7つの力』鹿島出版会
      (2000)「100年後へのメッセージ 日建設計創業100周年
            内井昭蔵、與謝野久 他 対談:100年を考える —過去から未来へ-」
          『建築と社会』(2000年8月号特集)日本建築協会
ウィリアム・H・マクニール (2001)『世界史』中央公論新社
出典
5-5  小西隆夫(1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社
5-6,7 日建設計(1970)『二十年史』中央公論事業出版
5-8 日建設計工務(1962)『10周年記念作品集』日建設計工務
5-11 撮影:川澄明男
5-12 図版作成:東京工業大学安田幸一研究室

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