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土木部門の誕生と米軍日本建設本部の仕事
住友は大正8年(1919)に、大阪の経済発展には港湾の充実が不可欠であるとして、大阪北港株式会社を設立しました。しかし第二次世界大戦が末期的な戦況となった頃、国は同種の企業を整理させる「企業整備令」を発令し、住友はその発令に従っています。
住友内の別企業であった長谷部・竹腰建築事務所と大阪北港株式会社は、昭和19年(1944)、国の「企業整備令」に従って合体されることになりました。
戦後、その合体は予想もしなかった別種の2つの活力を生むことになりました。一つは、後に住友商事となる「商事部門」の誕生、もう一つは、日建設計工務が「土木部門」を有することになったことです。
住友内の別企業であった長谷部・竹腰建築事務所と大阪北港株式会社は、昭和19年(1944)、国の「企業整備令」に従って合体されることになりました。
戦後、その合体は予想もしなかった別種の2つの活力を生むことになりました。一つは、後に住友商事となる「商事部門」の誕生、もう一つは、日建設計工務が「土木部門」を有することになったことです。
土質・地盤などの調査と建物の構造設計は、一切を自分達の手で
戦後の日建設計工務の独立に伴い、大阪北港株式会社の事業面は住友商事に継承され、技術面は日建設計工務の土木部門に継承されました。港湾の築造や海面埋め立てによる造成では「土質」が非常に重要な技術課題であったため、大阪北港株式会社には「土質」の技術が蓄えられていたのです。1953年、日建設計工務は、大阪北港で築かれた技術的な実績や人材を継承し、ボーリングや土質試験など一切を自社内の土木部門の手で行うことができる土質調査部門を設けました。自ら調査した確信の持てるデータを基礎に建物の構造設計を行う現在の方式が、この時に確立しています。
工場設計が戦後の日建設計工務において仕事の半分近くを占めていたこと、またその実績が現在の日建設計において重要な展開を示していることは、前稿で述べた通りです。広大な製鉄工場を作るには、土地造成設計や重量機械基礎などの土木設計が不可欠です。大規模工場プロジェクトでは建築・土木の業務を一体的に遂行できる体制が必要ですが、日建設計工務は、土木部門があったからこそ製鉄工場の設計監理が可能となり、戦後の厳しい時代を生き延びることができたのです。
工場設計が戦後の日建設計工務において仕事の半分近くを占めていたこと、またその実績が現在の日建設計において重要な展開を示していることは、前稿で述べた通りです。広大な製鉄工場を作るには、土地造成設計や重量機械基礎などの土木設計が不可欠です。大規模工場プロジェクトでは建築・土木の業務を一体的に遂行できる体制が必要ですが、日建設計工務は、土木部門があったからこそ製鉄工場の設計監理が可能となり、戦後の厳しい時代を生き延びることができたのです。
在日米軍日本建設本部(JCA)の仕事から
1951年の対日講和条約締結の後、在日米軍施設の工事は、米軍から直接契約で発注されることとなりました。在日米軍は、日建設計工務が土木部門を持っていることを評価し、昭和27年(1952)~昭和30年(1955)の間、継続的に仕事を発注しました。戦後ようやく復興の緒についたばかりで目ぼしい建設需要のなかった状況で、このJCAの仕事は、日建設計工務にとって干天の慈雨のようなものでした。
JCAからは、土木・建築・設備の混成メンバーからなる、米国流のプロジェクト・マネージメント方式で進めることを求められました。この方式が、1962年に日建設計工務がプロジェクト・マネージャー制度を明確化した原点となっています。また、図面・仕様書なども、米軍の設計技術基準に則り英語で作成することが要求されました。この英語による仕事の中で、米国の新技術も吸収し、設計仕様書の内容や組み立て方等も取り入れています。これらのJCAのプロジェクトでの経験は、現在の多くの海外プロジェクトに自然体で臨む組織づくりの原点にもなっています。
JCAからは、土木・建築・設備の混成メンバーからなる、米国流のプロジェクト・マネージメント方式で進めることを求められました。この方式が、1962年に日建設計工務がプロジェクト・マネージャー制度を明確化した原点となっています。また、図面・仕様書なども、米軍の設計技術基準に則り英語で作成することが要求されました。この英語による仕事の中で、米国の新技術も吸収し、設計仕様書の内容や組み立て方等も取り入れています。これらのJCAのプロジェクトでの経験は、現在の多くの海外プロジェクトに自然体で臨む組織づくりの原点にもなっています。
“Diversity”:日建グループの「多様性という力」
日建設計工務は終戦前後の混乱の中から、まるで巡り合わせのように土木部門を有することになったわけです。しかし、当時では予想もできなかった大きな意義が、その後の日建グループ全体に及び現在に至っています。もし、日建設計工務に土木部門がなかったら、現在の日建設計は多様性という力すなわち “Diversity”を欠いた設計事務所になっていたことでしょう。
“Diversity”こそ、日建グループの「力」の源泉の一つです。
2001年、土木部門は日建設計シビルとして分社独立しました。民間事業分野における産業基盤整備・開発プロジェクトや、社会基盤(インフラストラクチャー)に関連した都市空間・地下街設計も行っています。現在では、中国やベトナムなど世界各地の都市開発プロジェクトにも携わることとなりました。
“Diversity”こそ、日建グループの「力」の源泉の一つです。
2001年、土木部門は日建設計シビルとして分社独立しました。民間事業分野における産業基盤整備・開発プロジェクトや、社会基盤(インフラストラクチャー)に関連した都市空間・地下街設計も行っています。現在では、中国やベトナムなど世界各地の都市開発プロジェクトにも携わることとなりました。
(参考文献)
橋本 喬行 (1999)『北浜5丁目13番地から』創元社
日建設計シビル ホームページ
太田 久治郎(1941)『大阪北港二十年史』大阪北港株式会社
橋本 喬行 (1999)『北浜5丁目13番地から』創元社
日建設計シビル ホームページ
太田 久治郎(1941)『大阪北港二十年史』大阪北港株式会社
出典
5-18~21 1941『大阪北港20年史』大阪北港株式会社
5-22 船越義房(1968)『尾崎久助 その生涯と業績』日建設計工務株式会社
5-18~21 1941『大阪北港20年史』大阪北港株式会社
5-22 船越義房(1968)『尾崎久助 その生涯と業績』日建設計工務株式会社