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戦後経済の顔、新しい民主主義の器 
—百十四ビル・百十四銀行本店と広島県庁舎—

  • 6-1 百十四ビル・百十四銀行本店 昭和41年(1966)

  • 6-2 広島県庁舎 昭和31年(1956)

 戦後は、財閥が主役であった戦前の経済から脱却し、多くの一般企業が躍動を始める自由主義経済の時代となりました。日本各地の地域経済を支える銀行にも、この新しい時代における公共性を体現することが求められています。一方、政治の分野においても、戦前の官による権威的な政府ではなく、市民が主となる新しい民主主義を体現する行政庁舎が求められる時代となりました。このように戦後は、戦前までの考え方に捉われない「本来あるべき姿を求める合理性の時代」となったと言えるかもしれません。 
 建築の分野においては、戦前までを彷彿とさせる「様式建築」ではなく、合理性や自由を重視する「戦後モダニズム建築」を歓迎する時代を迎えました。戦後に独立した日建設計工務も、戦前までの様式建築から脱却し、新しいモダニズム建築の時代に入ります。独立して間もない日建設計工務に2人の若いリーダーが現れたことを前回配信で述べましたが、その1人である薬袋公明(みない・きみあき)が率いる大阪を拠点とした設計監理チームの仕事2件を紹介いたします。

新しい時代、人々に愛され街に生きる銀行本店とは?

 現在のように本州と四国が本州四国連絡橋で結ばれる以前、阪神経済圏と密接な繋がりを持つ四国の玄関口は高松港でした。昭和41年(1966)に完成した、当時の西日本では最高の64mの高さである百十四ビル・百十四銀行本店は、遥かな瀬戸内の海上からも確認することができる建物であり、そこに高松の街があることを印象付けるものでした。また、屋上の展望スペースには市民が自由に上がることができ、自分達が住む高松の街とそれを取り囲む海と山の美しい景色を望むことができる場所となっていました。百十四ビルは高松市民の誇りとなっていたのです。
 垂直の高層棟と2つの敷地を伸びやかに繋ぐ5階の水平線は、緑青銅板の外壁となっており、敷地の向かいにある中央公園の木々の緑に呼応して、高松を代表する都市景観の1つとなっています。また地上階では、街ゆく人々を強い日差しと雨から守るように柱廊が巡っており、建物自身が銀行のホスピタリティを表明しているようです。「都市の大きなスケール」と「人間的なスケール」に、それぞれきめ細やかに対応した、街に生きる建築となりました。

6-3 百十四ビルは、北の高松港と南の栗林公園を結ぶ、高松の主要幹線である中央通り沿いに、中央公園に面して位置する。

 建築の寿命は、その建物を使う人々やオーナーから如何に愛されているかによって決まります。この街に生きる建築は、「我が国における良好な建築ストックの形成に寄与することを目的とする表彰制度」であるBELCA賞を、2度受賞することになりました。平成4年(1992)の第2回BELCA賞ではロングライフ部門、平成25年(2013)の第22回BELCA賞ではベストリフォーム部門で受賞しています。2度目の受賞となった改修では、竣工後48年を経たブロンズサッシュの外側に、幅60㎝ほどの空気層を挟んでダブルスキンと呼ばれるガラススクリーンが設置され、熱せられた空気が上部に自然排出されることで省エネルギー性能が格段と高まったものとなっています。約半世紀近くにわたるこの建物に対する市民の愛着と、それに応えようとする建物オーナーがおられたからこそ達成できたことでした。
  • 6-4 百十四ビルダブルスキン写真

  • 6-5 百十四ビル矩計・立面図

  • 6-6 改修後の百十四ビル外観 平成21年(2009)

「ゼロの地点」から、新しい民主主義を体現する県庁舎を立ち上げる

 昭和20年(1945)8月6日午前8時16分、世界で最初の核兵器である原子爆弾が広島市に投下され、広島の街は灰燼に帰しました。しかし、人々は被爆の苦しみを乗り越えながら、その後10年間、広島の復興を力強く進めていたのです。不死鳥のように広島の街が蘇ってきたことに世界の人々は驚きました。
 戦後の日本建築界の巨匠となった丹下健三が若き日に設計した広島ピースセンターは原爆で犠牲になった人々への鎮魂のシンボルとなりました。そして昭和31年(1956)、爆心地であった太田川の相生橋から直線距離で600mの地に、薬袋公明率いる日建設計工務チームの設計監理により実現した新しい広島県庁舎は、新しい民主主義を体現する器となりました。

 この県庁舎は、軟弱な粘土層の上に浮かぶような広島デルタという難しい地盤に建てられるものであり、戦後の限られた厳しい予算の中にあって、地盤の圧密不同沈下を防ぐ構造計画や建築計画が必要でした。その結果、地盤に建物の荷重が集中する高層の建物は避けられ、中層の本館や低層の南館・議事堂棟が拡がりを持って雁行する配置計画となったのです。広々とした正面玄関には本館・南館に取り囲まれた明るい中庭が面し、全館にわたって伸びやかな構成となっています。また、鉄筋コンクリート造の多重の水平庇や、1階ピロティなどの力強い骨組みの表現も、建物の表情を豊かなものにしています。
 この新しい県庁舎の特徴である「明るさ」や「伸びやかさ」は、社会の自由や闊達さを実現しようとした新しい戦後の民主主義の器に相応しいものでした。

6-7 広島県庁舎

建築は、社会的資産であるべし

 百十四ビルは建築竣工後48年、広島県庁舎は建築竣工後58年を経ていますが、今後も使い続けることが決定されています。欧米など諸外国に比べると建築の寿命が短い日本では、半世紀を超えて建物が使い続けられることは稀なことかもしれません。
 薬袋公明は私達に、少しはにかみつつも、しかしきっぱりと次のように語っていました。
「建築は、社会的資産であるべし。私達は、世代を超えた社会的責任に応えなければならない。」
  • 6-8 広島県庁舎 玄関ホール

  • 6-9 広島県庁舎 外観 昭和26年(1956)

(参考文献)
日建設計工務株式会社 (1962)『10周年記念作品集』日建設計工務
           (1967)『新建築』(1967年2月号)新建築社
           (1956)『建築文化』(1956年10月号)彰国社

出典
6-1 撮影:タイラフォト
6-4 撮影:竹中工務店大阪本店総務部写真室

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