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社内株主制度の遺伝子 -自由の持つ力—

 日建設計では、日本建設産業から独立した日建設計工務の時代以来、株式保有を社内のみに限定し、外部資本によって日建設計の株式が保有されることのない経営方針を堅持してきました。この方針を「社内株主制度」と呼んでいます。株式を公開せずに60年以上この方針を貫いてきたのは、この「社内株主制度」に、重要な意味が込められているからなのです。

欧米では法律により、建築設計事務所に外部資本が入ることが禁止されている

 欧米では法律により、弁護士事務所・会計事務所そして建築設計事務所は、全て自己資本とするよう定められており、外部資本が入ることが禁止されています。その理由は、これらの職能が持つ社会的責任の大きさから、「プロフェッショナルな倫理に基づいて職能が遂行されるべきであり、そのためにも外部資本の影響があってはならない。」ということにあります。このような法人形態は、欧米ではプロフェッショナル・コーポレーションと呼ばれており、法制化されています。
 建築の設計には、2つの大切な基本とすべき倫理があります。1つは、もちろん設計委託者の益になること、もう1つは、建築が社会の中に存在する以上、その社会の益になることです。
 株式を公開している株式会社では、株主を優先する経営となることはやむを得ません。むしろ、株主尊重が企業経営の基本理念ともなります。しかし、もし特定の株主が自己の経済的利益のため、建築設計事務所を所有すれば、様々な社会性もある建築プロジェクトを支配することが可能となります。 
 欧米のプロフェッショナル・コーポレーションとは、「社会性のある建築」を守るために、このようなことが原則的に起こらないように法制化されたものです。一方、日本では特にこのような法律規定はありません。もし日本で、建築設計業務に関してこの法律を実施すると、工務店やゼネコンによる設計施工も普及している現状では、微妙なことが生じる可能性があります。
 日建設計工務では、まさに設立の時に建築設計事務所があるべき姿として、欧米では法制化されているほどに重視されているプロフェッショナル・コーポレーションという組織デザインがなされていました。この事実はあまり知られていませんが、日本では画期的なことだったと私達は考えています。

6-16 RIBAのレターヘッドで送られてきた、日建設計が来年115周年を迎えるにあたっての祝意を伝えるRIBAプレジデントからのレター。日建設計より、RIBAと竹腰健造の関係から、RIBAの紋章を引用させてほしい旨を依頼したところ、 送られてきたもの。

長谷部・竹腰建築事務所は、プロフェッショナル・コーポレーションだった

 第4回配信の「4-1 長谷部・竹腰建築事務所の設立 -大恐慌の嵐の中へー」の中で記したように、長谷部・竹腰建築事務所では、当初に借入していた資本金も業務拡大に伴い返済し、独立4年後からは長谷部と竹腰の2人のオーナーシップによるプロフェッシナル・コーポレーションとしていました。竹腰健造は、3年間の英国滞在の間にRIBA(Royal Institute of British Architects/王立英国建築家協会)の建築家資格試験に合格し、英国の建築設計事務所に勤める実務経験の中で、建築設計事務所はプロフェッショナル・コーポレーションであるべしとの信念を育てたと思われます。帰国後、期せずして長谷部と設計事務所を立ち上げることとなりましたが、迷わずプロフェッシナル・コーポレーションのパートナーシップ形式としています。
 長谷部・竹腰建築事務所には、後に日建設計工務・初代社長となる尾崎久助、2代目社長となる伊藤鑛一、3代目社長となる塚本猛次が既に勤めていました。後に日建設計工務の幹部となる3人をはじめとする人々は、長谷部と竹腰から大いに薫陶を受けており、建築設計事務所があるべき姿についても強い影響を受けていました。「所員心得」として明言されていた、建築設計事務所の所員が持つべき職業倫理もまた日建設計工務に引き継がれています。

6-17 1917年、ロンドンを去るに際しエッチングの師が描いた、29歳の竹腰健造

日建設計工務の独立と、社内株主制度の確立

 昭和20年(1945)の終戦直後、GHQにより住友財閥が解体されることになり、住友本社の人員および住友関連各社の復員・引揚者の受け入れ新規事業会社として、商事部門を新たに設けた日本建設産業株式会社が設立されました。その初代社長には竹腰健造が就任していますが、竹腰は、GHQによる公職追放を待つことなく昭和22年、日本建設産業の社長を自ら辞任し住友を去っています。
 昭和25年(1950)、日本建設産業から設計監理部門が独立し、日建設計工務株式会社が設立されました。その初代社長は尾崎久助です。設立当初の全株式は日本建設産業により保有されていましたが、日建設計工務の経営がかろうじて軌道に乗り始めた2年後、日本建設産業より全株式が、尾崎久助以下15名に譲渡されました。この時に、竹腰健造の薫陶を長く受けていた尾崎久助たちは、全株式を社外に出さない方針を確立しました。これが社内株主制度の始まりです。日建設計工務の設立時に中心となった人々は、建築設計事務所が法人形態としてあるべき姿について、竹腰の信念を引き継いだのです。
 この独立以来、現在につながる日建設計・日建グループ各社は、社内株主制度を固く保持し、社外株主による外部資本に左右されない自主独立の経営の基礎としてきました。外部の株主のために利益を上げる会社ではなく、建築設計事務所としてあるべきと信じるプロフェッションを遂行する法人組織であり続けているのです。

自由の持つ力

 日建設計・日建グループ各社にとり、財産は2つしかありません。1つは「人的資産」、そしてもう1つは「社会からの信用」です。戦後の日建設計工務は、住友関連各社に留まらず、広く様々な企業から仕事を受託していますが、独立することによって得られた「自由の持つ力」は、職能倫理に基いて職務を遂行するための基礎となり、広く社会からの信用を得るための基礎となっています。

6-18 昭和8年(1933)、住友合資会社工作部から長谷部・竹腰建築事務所が、大恐慌の嵐の中に船出する小舟のように独立した。この長谷部・竹腰建築事務所の独立があったからこそ、1950年、長谷部と竹腰の薫陶を受けた人達がリーダーとなった日建設計工務は、終戦後の混乱の中で将来への不安を抱えながらも、日本建設産業からの独立を果たすことができた。この決断がなければ、現在の日建設計・日建グループは存在していない。「社内株主制度」は、その独立の基本理念である。上記の図は、前掲の「住友商事と日建設計工務」で示した図に青の2つ楕円と点線を書き込み、この間の事情を示したもの。

(参考文献)
竹腰 健造 (1980)『幽泉自叙』創元社 
小西 隆夫 (1991)『北浜五丁目十三番地まで』創元社 
橋本 喬行 (1999)『北浜五丁目十三番地から』創元社 
日建設計  (1970)『二十年史』日建設計
出典
6-17 竹腰健造(1977)『懐旧譜』竹腰健造

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