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緑の力 -街に並木をつくり出し、つなげてゆく-

 鉄とガラスとコンクリートなど人工物で満ちているのが現代都市ですが、それだけでは息が詰まるような圧迫感をもたらしてしまいます。その圧迫感を和らげるために、街の中には緑が必要です。そこで生活する人々のために清々しい景観と潤いある環境をつくり出すことは「緑の持つ力」に負うところが大きいと考えられます。都市のヒートアイランド現象を和らげる効果もあることはもちろんです。

御堂筋ウェストサイド物語は、16本のクスノキから始まった

 大阪・御堂筋の地下鉄淀屋橋駅の西側約3ブロックのエリア内に、心地良いクスノキの並木道が続いています。特に夏の暑い日中には、緑陰を伝って歩くことのできるプロムナードとして、道行く人々に潤いを提供しています。緑の並木道沿いには洒落たレストランやカフェが街に表情を添えており、行き交う人々で賑わうこのエリアは最近、「御堂筋ウェスト」と呼ばれる魅力的なスポットになってきました。
 しかし30年前は、慌ただしく歩く人と道路の車による埃が舞うだけの緑の全くない街でした。その殺風景な街が、現在の緑のプロムナードをもつ街に変わる物語は、ある1棟のオフィスビル・銀泉横堀ビルから始まります。

 30年前のことです。銀泉横堀ビルの設計にあたり、A案とB案がありました。通常、賃貸オフィスビルの基準階面積は、広い方がテナントの使い勝手が良く好まれる傾向があります。A案は、道路から建物を2m後退させ、大阪市で定められた「船場建築線」限度ぎりぎりまで建物を拡げて基準階面積をできるだけ広くとる案。B案は、6mの壁面後退を行い、総合設計制度の公開空地としてクスノキ並木の広い歩道を街に提供する案でした。ビル事業者としては、B案では全体の床面積について割り増しが得られるものの、基準階を狭くすることには抵抗があるのが普通です。ビル事業者と設計者の関係者一同は、その選択に大いに迷いました。一時はA案に傾きかけた時期もありましたが、結局、ビル事業者の高い見識にも支えられ、B案を選択するに至りました。幅6mの歩道上の2本のケヤキと16本のクスノキに囲まれた、当時このエリアでは珍しい、緑を街に提供するオフィスビルが誕生したのです。そしてこのビルは、将来この地区に緑のネットワークをつなげてゆく最初の一石を投じることとなりました。

8-13 銀泉横堀ビル(〇印) 昭和61年(1986)
銀泉横堀ビル前の南北通り「魚の棚筋」から始まった緑の環境づくりは、近隣地権者の連携により、交差する東西の通りにも面的に拡がっている。上図の並木の表示で、濃い緑色は日建設計が関わったもの、薄い緑色は関与していないものを示す。なお、ビル名は竣工当時のもの。

 その後30年余りが経過する中で、近隣地権者の方々の理解や連携で、この敷地内歩道を連続させ、緑道をコツコツつなげてゆく街づくりが続けられてきました。最近では、2008年に開業した、御堂筋に面する大きな開発である淀屋橋odonaの緑地歩道にまで連続し、ついに御堂筋にまでつながることとなりました。今後完成するオフィスビルでもこの試みは受け継がれています。
 この心地よい街並み形成は、当初からマスタープランがあったわけではなく、法的な規制・誘導の結果として実現したものでもありません。それぞれのビル事業者によるビルの建設や改修の過程において徐々に出来上がってきたものです。各ビル事業者が昔から持っていた高い見識が、この街を育んできました。
  • 8-14 光庭で地下階に緑を取り込んだレストラン

  • 8-15 御堂筋ウェストに出るエスニックのフードトラック

歴史をつなぎ、緑で周辺の街とつながる飯田町アイガーデンエア

 東京千代田区の飯田町は、歴史を積み重ねてきました。江戸時代は江戸城下の大名屋敷街であり、明治時代以降は甲武鉄道開業による近代交通の起点でもありました。昭和の初め頃からは貨物駅である「飯田町駅」となっています。21世紀に入り、その貨物駅跡地は開発され「アイガーデンエア」が誕生することになりました。この「アイガーデンエア」では、小石川後楽園から皇居に至る大きな緑地の系を「つなげてゆく」ことを街づくりの大きなテーマとしています。

 オフィスビル・ホテル・商業施設・分譲マンションなどが立地している延べ床面積28万㎡の面的な開発には、南北に貫く長さ約300mの歩行者のための「緑陰モール」がつくられました。この緑陰モールの南半分には、高く円錐形に育ったメタセコイアの並木道があり、冬の美しい樹形・春の新緑・夏の緑陰・秋の紅葉など一年を通じて緑を楽しむことができます。この樹木の成長は早く、2003年の開業以来11年を経た現在では、日本の都心では稀に見る堂々としたメタセコイア並木の景観を形づくることとなりました。一方、その緑陰モールの北側には大きなモミジ並木による緑のトンネルに覆われた、緩やかに蛇行する小道がつくられています。この小道は「平川の径」と名付けられました。「平川」とは江戸時代のはじめ頃までこの地に流れていた川の名前で、遺跡調査で出土した平川の護岸の石積みはこの小道の石組に用いられました。
ここでも歴史はつなげられています。

8-16 飯田町アイガーデンエア(〇印) 平成15年(2003)
   鳥瞰図上部の緑地が小石川後楽園、下部の大きな緑地が皇居

 この飯田町アイガーデンエアの計画初期から完成までの一貫したコンセプトは、「周辺の街とつながること」でした。周辺の街で働く人々がアイガーデンエアの緑の道を心地よく通り抜けていたり、近くの幼稚園児のお散歩コースになっていたり、子連れの親子を見かけたり、早朝のジョギングや犬の散歩をしている人々の光景に、かつては貨物駅が周辺の街を大きく東西に分断していたこの飯田町に、再び街としての面的な一体感が取り戻されたことを実感します。この街づくりへの思いは、お祭りや清掃ボランティアなどの共同開催を通じて、街の人々に引き継がれています。

8-17 飯田町アイガーデンエアの南北を「緑陰モール」(〇印)が貫く

  • 8-18 「平川の径」のモミジ並木と石垣

  • 8-19 日建設計東京オフィスのロビーから見たメタセコイア並木
    メタセコイアの足元に設けたテーブルは人々に重宝されている

 緑は不思議な力を持っています。人の心を和やかにし、人と人とを結び付ける「緑の場エネルギー」があるのかもしれません。そのような緑の力を求めて、日建設計の東京オフィスは飯田町ガーデンエアに立地し、大阪オフィスは、今ではすっかり大きく育った16本のクスノキに囲まれた銀泉横堀ビルに入居しています。そして名古屋オフィスは、久屋大通り公園の大規模緑地を見下ろすことができるオフィスに入居しています。
(参考文献)
日建設計(1994)『FACT-日建設計ピンナップボード‘93』 日建設計
日建設計(2006)『FACT-日建設計ピンナップボード2005』日建設計
日建設計(2006)『FACT-環境親話2006」日建設計
出典
8-18 撮影:エスエス東京
8-19 撮影:新建築社写真部

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