Project Story

渋谷
再開発プロジェクト

#02

課題解決を必要としながら
複雑で手をつけられなかった
渋谷の再開発に挑む。

2012年3月、渋谷再生の第一歩となる、巨大な吹き抜け空間を持つ高層複合施設「渋谷ヒカリエ」が竣工。以来、都市再生のひとつである渋谷再開発プロジェクトは、着実に成果を重ね続けてきた。そして今また、さらなる社会課題の解決へと向かいつつある。

Project Member

2010年入社
日建設計
都市部門

姜 忍耐

2011年入社
日建設計
都市部門

杉田 想

2020年入社
日建設計
都市部問

道家 浩平

老朽化した駅とその周辺を生まれ変わらせるために、
十数年前からプロジェクトに参画。

渋谷は1970年代にはすでに日本を代表する「若者のまち」だった。バブル崩壊の影響も比較的小さく、1990年代後半には活気が戻り、カルチャー発信地としての存在感を保持していた。その渋谷が抱え続けていた最大の課題が“駅”だ。

駅も駅ビルも機能更新が求められ、さらに谷地形の底に位置しているため豪雨対策の必要性も高まっていた。6駅8線の鉄道路線が結節し、改札が多層に位置していることから、バリアフリー化や乗り換え利便性の向上等が必要であった。さらに、駅前は狭く、線路や道路によってまちが分断されている。「若者のまち」「消費のまち」から進化するためには、駅とその周辺の再整備が不可欠だったが、多数の利害が入り混じる複雑な状況により話は進んでいなかった。

 転機となったのは、バブル崩壊後の経済再生に向け、都市再生が国の重要な戦略的課題と位置づけられたことだった。再開発への民間の参入を促す法律の制定・改正が進み、渋谷区でも2003年に行政、事業者、学識経験者などによる委員会が「渋谷駅周辺整備ガイドプラン21」を発表。国の後押しもあって計画が進み、まず2012年に「渋谷ヒカリエ」が竣工した。この直前に渋谷は特定都市再生緊急整備地域の第1次指定を受け、国際競争力強化への歩みを確かなものにしていく。

 日建グループは、「渋谷ヒカリエ」の計画が動き始めた2003年ごろから渋谷駅周辺再開発プロジェクトに関わり続けてきた。なかでも日建設計の都市部門は、行政や鉄道をはじめとする各種事業者、学識経験者など多様な関係者の意見を汲み上げながら都市計画提案をまとめ上げるという役割を担ってきた。今に至るまで、若手も含めた多くのメンバーが、プロジェクトを通じて貴重な体験を重ね続けている。

駅中心部の大規模再開発が佳境を迎えるなか、
新入社員たちが、大きく成長。

姜は、5つの街区に分けて進められていた渋谷駅中心部の大規模再開発のうち、「渋谷ヒカリエ」の都市計画提案が完了したばかりの2010年に入社。都市部門に配属された。「渋谷ヒカリエ」に続き、「渋谷スクランブルスクエア」、「渋谷ストリーム」、「渋谷フクラス」、少し遅れて「桜丘口地区」と、次々にスタートしたプロジェクトが盛況するなか、姜は「渋谷ストリーム」チームの一員となった。まず驚いたのは、社内外ともに関わる人の数が膨大なことだった。並行して動く他の街区プロジェクトとの情報連携も欠かせない。資料を読み込んだり、打合せに同行したりするなかで、なだれ込んでくる膨大な情報を必死で吸収する日々が続いた。

1年後には杉田が入社し、「渋谷スクランブルスクエア」チームの一員に。この頃には両プロジェクト共に都市計画提案の取りまとめが大詰めを迎え、まさに佳境に入っていた。姜同様、最初から簡単には全体像がつかめないなか、走りながら状況を把握し、懸命に先輩の指示をこなしていく毎日…。そんなさなか、都市計画提案に向けて先輩が担っていた景観やデザイン検討に関する会議の準備や会議招集などを行う立場に。姜も状況は似ていて、各種検討や議論内容をチームでまとめながら、行政との協議資料や申請すべき書類づくりやそのための調整、都度必要となる他街区との連携などに向け、自ら動くことが増えていく。

主体的に動き始めると全体像への理解も進む。「駅と鉄道が多層的に入り組んだ状況を逆手に取り、多層な都市基盤を上下につなぎ、各街区それぞれに個性を持たせた縦軸空間“アーバン・コア”を設け、駅から周辺の個性ある後背地へと人を流す多層都市をつくる」。そんなプロジェクト全体を貫くコンセプトの魅力に、姜も杉田も、どんどんひき込まれていった。

関係者が会議を重ねて進む先例のない渋谷方式が
かつてない価値の創造へとつながっていく。

目まぐるしかった日々の中で特に印象深いのは、何回も繰り返された濃密な会議やワークセッション。
 「渋谷ストリーム」担当の姜は、プランの中に渋谷川や川沿いの遊歩道の整備の大切さをプレゼンするために、チームで力を合わせてつくった長い巻物のような完成図のことを懐かしく思い出す。「渋谷スクランブルスクエア」担当の杉田には、毎回、事業者や日建の設計チーム、外部の隈研吾氏や妹島和世氏などの建築家も含め50人ほどの大人数が集まり、チームで模型を使い複数の案を発表して、全員で採用する案を決めていったワークセッションが非常に刺激的だった。上司のファシリテーションに学びつつ、渋谷再開発の中核をなす建築の詳細が決まっていく場に立ち会った経験は、今も大きな財産となっている。

また、渋谷再開発では、個性豊かな個々の建物が呼応し合い、全体として質の高い景観を形成することを目指して、学識・行政・地元代表委員から構成される「デザイン会議」が事業者の提案するデザイン案について助言を行うという、画期的な仕組みが設けられた。その会議で議論するため、詳細が決まってくると5街区全体の1/200模型も作成された。これを会議の度にばらして運び、組み立てるのも姜や杉田ら若手メンバーの仕事だった。初めてこれを組み立てた時に、多くの関係者と創り上げていく都市の姿が具体化した瞬間の感動も、記憶に鮮明だ。

こうして2013年、ついに都市計画提案にこぎつけることができた。入社4年目を迎えていた姜は、これを区切りにジョブローテーションで九州オフィスへ異動。育ってきた福岡の街で開発計画を担当し、プロジェクトによっては一人でこなさなければならないような環境の中、渋谷再開発での経験を活かして成長を遂げていった。世界的にも渋谷のアーバン・コアの考え方などへの関心は高く、その後、東京に戻り海外の案件を担当した際には、渋谷の先進性を改めて実感しながら経験を提案に織り込み、クライアントの共感を得ることができた。一方、杉田は都市計画提案終了後、継続して渋谷のプロジェクトに携わっていたが、景観やデザインについて設計チームと関わる中で、設計部門の仕事をより深く知りたいと感じ、翌年のジョブローテーションによる異動でこの希望を叶えた。3年後には都市部門に戻り、今は他エリアで渋谷同様に複数の街区が連携して進めていく再開発を担当。渋谷での経験を活かし、全体のマネジメントに力を発揮している。

再開発は中心から周辺へとステージを変え、
地域性の継承・強化という新課題に立ち向かう。

姜と杉田がプロジェクトを離れた後も、渋谷の再開発は新たなメンバーに受け継がれ、次のステージへと進展を続けていく。そして、中心5街区の都市計画提案が全て完了し、その周辺部の更新計画が動き始める。2020年1月、姜が再び渋谷を担当することになり、さらに2か月後、新入社員の道家が姜のチームに合流。二人は今、渋谷の第二ステージのまちづくりとして、強烈で多様な地域性を醸成してきた渋谷駅周辺地域に位置する大規模開発プロジェクトに関わっている。

新人から中堅へと立場を変えた姜は、かつての先輩たちの姿を思い浮かべながら多種多様な関係者の連携に奔走。道家は、初めて足を踏み入れたまちづくりの舞台裏で、学問としての都市計画や建築とはまた違う現場のあり方を体感しながら、任された仕事に対応するとともに、少しでも先を読んで自ら動くことを楽しんでいる。

「都市計画を専攻していた学生時代に、馴染み深い渋谷のまちの再開発に日建設計という会社が関わっているらしいと知ったことが今につながった。同じ渋谷でも周辺地域には、わざわざ足を運ばせるだけの個性、地域性が息づいている。それを継承、強化して、渋谷全体をさらに魅力的なまちに」。
そう思うと検討中のプランにも自分なりのイメージが湧いてくる。ただ指示された資料を作成するのではなく、今何を議論すべきかを考えて自分なりの提案をするように心掛けている。発信者が誰であろうと新たな提案やアイデアを心から歓迎し、皆でより発展させてプランに織り込んでいく。周囲のそんな空気が道家には心地よい。

渋谷の再開発は、学識、行政、地元、事業者が議論を重ねてまちをつくっていくというプロセスや方法論も含めて「駅まち一体開発」の代表例となり、海外も含めた大都市のまちづくりに一つの変化をもたらした。次は、その周辺の再開発のあり方についても新しい答えを示していくことになるだろう。さらには、常にどこかで更新と変化が起こり続ける終わりなき再開発のモデルとなって、日建グループにおいても、新たなノウハウや人を育て続ける特別なプロジェクトとして末長く引き継がれていくのかもしれない。

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